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25

磯城
【しき】


旧国名:大和

(古代)大和期から見える地名。志貴・志紀・志癸・師木とも書く。奈良盆地東南端から西北へ流れる大和川(初瀬(はせ)川)流域に位置する。狭義には纏向(まきむく)川(巻向川)と粟原川ではさまれた地域。語源については頻るに重なるの意があるところから段丘説があり,シは石または磯で岩のある場所・石の城・城などと解する説もある(古代地名語源辞典)。①磯城邑。神武即位前紀戊午年9月戊辰条に「倭国の磯城邑に,磯城の八十梟帥有り」と見える。当地の豪族に兄磯城・弟磯城(兄師木・弟師木)の兄弟がおり,磯城彦と称された(神武即位前紀11月己巳・古事記神武段)。現在の桜井市金屋を中心とする地域か。②磯城県。大和六県の1つ。神武天皇に帰順した弟磯城を「磯城県主」に任じたと見える(神武紀2年2月乙巳条)。磯城県は「延喜式」神名上の城上郡35座のうちに見える志貴御県坐神社鎮座地(現桜井市金屋に比定)を中心として,のちの城上・城下郡の範囲に設定されたと考えられる。志貴御県坐神社は大和六御県神社の1つで,高市・葛木・十市・山辺・曽布の各御県神社とともに,県に生ずる蔬菜を貢進する(延喜式祈年祭・月次祭祝詞)。天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)城上郡条に「志癸御県神戸」が見え,租穀1,351束8把のうち4束を祭神料に充てている。大同元年には志貴御県神に対して神封12戸が与えられている(新抄格勅符抄)。貞観元年志貴御県神は従五位下から従五位上に昇叙されている(三代実録貞観元年正月27日条)。なお,磯城県主は大王家と独自の婚姻関係を結び,綏靖天皇以下6代に皇妃を入れたと伝承される。すなわち,綏靖天皇には磯城県主の女川派媛(一説に師木県主の祖河俣毘売),安寧天皇には磯城県主葉江の女川津媛(一説に師木県主波延の女阿久斗比売),懿徳天皇には磯城県主葉江の男弟猪手の女泉媛(一説に磯城県主太真稚彦の女,師木県主の祖賦登麻和訶比売〈飯日比売〉),孝昭天皇には磯城県主葉江の女渟名城津媛,孝安天皇には磯城県主葉江の女長媛,孝霊天皇には磯城県主大目の女細媛がそれぞれ妃となったという(古事記綏靖段・安寧段・懿徳段,綏靖紀2年正月条一書云・安寧紀3年正月壬午条一書云・懿徳紀2年2月癸丑条一云・孝昭紀29年正月丙午条一云・孝安紀26年2月壬寅条一云・孝元即位前紀)。これらの伝承によれば,かつて磯城県主たちは大和王権と密接な関係にあったことが知られる。同氏は天武天皇12年に連姓を賜り(天武紀12年10月己未条),「志貴連」は神饒速日命の孫,日子湯支命の子孫と伝承される(姓氏録大和国神別)。和泉国にも饒速日命の7世孫,大売布の子孫を称する志貴県主が居住するが(同前和泉国神別),母系によって県主氏を称したものか(姓氏家系大辞典)。奈良期の末頃に成立したとされる「紀氏家牒」(無窮会神習文庫本玉簏73)によると,羽矢師宿禰の子,泊瀬部宿禰は大倭国磯城県泊瀬山尾に居住したので泊瀬部宿禰と称し,雄略天皇から泊瀬山口連の姓を賜ったとある。③磯城。垂仁紀25年3月丙申条所引一云に,倭姫命は天照大神を「磯城の厳橿の本」に祀ったとある。厳橿は神霊のよりしろとなる神木で,崇神朝に豊鍬入姫が天照大神を倭の笠縫邑に祀り,そこに「磯堅城の神籬」を立てたことに関連する(崇神紀6年条)。すなわち,「古語拾遺」には「磯城の神籬」とあり,神籬も神の降臨する場所を示すので,「磯城の厳橿の本」と「磯(堅)城の神籬」は同所とも考えられる。位置は不明だが,現田原本町新木の笠縫神社,桜井市三輪の檜原神社,同市笠の笠山坐神社などに比定する説がある。また,御真木入日子印恵命(崇神天皇)は「師木の水垣宮」で天下を治めたとされ(古事記崇神段),都を「磯城」に遷し,「瑞籬宮」と称したともある(崇神紀3年9月条)。のちに磯城瑞籬宮御宇崇神天皇と追号されている(延喜式諸陵寮)。崇神天皇の宮は現在の桜井市金屋の志貴御県坐神社付近に比定されるが確証はない(大和志・大和志料下)。さらに,伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)は「師木の玉垣宮」で天下を治めたとされる(古事記垂仁段)。ただし,「書紀」などには纒向珠城宮と表記される。纒向は広義の師木(磯城)に属する。宮の所在地について「帝王編年記」は城上郡纒向河北里西田中とし,現在の桜井市穴師西方に比定。「大和志」も穴師村西方とし,「大和志料」は穴師と巻野内の間にある珠城山付近に比定する。周辺の小字に玉井・玉川の呼称が残るのは珠城宮の遺称かという(桜井市史上)。地名にちなむ人物としては,綏靖天皇皇子でのちの安寧天皇となる磯城津彦玉手看尊(師木津日子玉手見命),安寧天皇皇子で猪使連の始祖となる磯城津彦命(師木津日子命),開化天皇の孫で大俣王の子曙立王の別名倭師木登美豊朝倉曙立王,天武天皇の子磯城皇子などがいる(綏靖紀25年正月戊子条,古事記綏靖段,安寧紀3年正月壬午条一云・同11年正月壬戌条,古事記安寧段・垂仁段,天武紀2年2月癸未条・朱鳥元年8月癸未条)。なお,「万葉集」巻10に「君に恋ひうらぶれ居れば敷の野の秋萩凌ぎさ男鹿鳴くも」(2143)と詠まれる「敷の野」は所在不明だが,当地の野を詠んだとも考えられる。④磯城島。欽明天皇の磯城島金刺宮伝承地。天国押波流岐広庭天皇(欽明天皇)は「師木島の大宮」で天下を治めたとされ(古事紀欽明段),都を「倭国の磯城郡の磯城島」に遷し,「磯城島金刺宮」と称したともある(欽明紀元年7月己丑条)。宮号については,斯貴島宮・斯帰斯麻宮・志帰島宮(上宮聖徳法王帝説),斯帰島宮(元興寺縁起),磯城島宮(豊後国風土記日田郡靱編郷),志貴島宮(本朝月令所引山城国風土記逸文),磯城島金刺宮(延喜式諸陵寮)などと表記される。宮の比定地について,室町期に成立した「聖徳太子伝玉林抄」は,三輪山の山麓に磯城島と称する郷があり,山崎の小堂の対岸竹原に小社があって,そこを磯城島金刺宮の内裏跡と伝えていることを記す。「大和志」は金屋村の西南で初瀬川の南とし,「大和志料」下は三輪村大字金屋の東南,山崎の「シキシマ」に垣内と称する田地があり,そこを宮跡に比定する。当地は三輪山崎の小字「カナサシ」と初瀬川を隔てて相隣するという。現在,桜井市金屋には,桓之内・山崎・島ノ脇などの小字が残る(大和地名大辞典)。なお,「霊異記」下巻第39話に善珠禅師は幼い頃,母とともに「大和国山辺郡磯城島村」に居住したと見えるが,郡名は城上郡の誤りか。地名の由来はシキのシマの略で,川添の砂礫地の意とされる。初瀬川と粟原川に挟まれた曲流地域の俗称から生じたらしい。城島は磯城島の2字化したもの(桜井市史下)。やがて,シキシマは「日本」の別名となり,大和の枕詞となる(万葉集1787・3248・3249・3254・3326・4280)。「万葉集」巻20の大伴家持作歌に「磯城島の大和国に明らけき名に負ふ伴の緒心つとめよ」(4466)とあるのはその例である。⑤磯城川。初瀬川の別称。武内宿禰と甘美内宿禰はともに磯城川のほとりで探湯したとある(応神紀9年4月条)。⑥磯城郡。欽明天皇は都を「倭国の磯城郡の磯城島」に遷したとある(欽明紀元年7月己丑条)。欽明朝に律令制的な郡(評)が存在したとは考えられないが,同時期に令制下には存在しない「今来郡」「難波郡」の名称も見えるので,単なる潤色ではなく,先行的な行政組織が王権直轄地に限り設定され,「郡」の用字で表現された可能性が指摘できる。磯城邑や磯城県との関連が考えられるが,詳細は不明である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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