海柘榴市
【つばいち】

大和期~平安期に見える市場名。「つばきいち」とも称し,海石榴市・椿市・都波岐市とも書く。三輪山南西麓で,初瀬川北岸に立地。「つばきいち」から「つばいいち」,「つばいち」へと転訛したもので,植物名の椿にちなむ。「万葉集」巻13に「三諸は 人の守る山 本辺は 馬酔木花開き 末辺は 椿花開く」(3222)とあり,三諸山の末辺に椿の多かったことが詠まれている。また,「三輪大明神縁起」に椿・檻・柞などの五木で神籬を作り,松・杉・榊で3霊木を立てて御神体としたと見えることから,三輪山周辺に椿樹が生えていたと推定される(桜井市史下)。市場の街路樹に椿が植えられていたという説もある。武烈即位前紀に,武烈天皇がまだ太子であったころ,物部麁鹿火の女影媛を招こうとして,媒人を遣わすと,影媛は「妾望はくは,海柘榴市の巷に待ち奉らむ」と答え,2人は海柘榴市の巷で行われた「歌場(うたがき)」で歌をやりとりしたとある。「万葉集」巻12の「海石榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも」(2951),「紫は灰指すものそ海石榴市の八十の衢に逢へる児や誰」(3101)の歌も,当地で行われた歌垣で詠まれたものらしい。女性に名を尋ねることは,当時求婚を意味し,当市で多数の男女が集まり,歌を詠みかわして求婚の場となる歌垣が催されていたのである。敏達紀14年3月丙戌条に「有司,便に尼等の三衣(さむえ)を奪ひて,禁錮(からめとら)えて,海石榴市の亭(うまやたち)に楚撻(しりかたう)ちき」とあり,尼善信らを見せしめのために当地で鞭打ちの刑に処したという。「元興寺縁起」(醍醐寺蔵/寧遺中)には「都波岐市長屋」と見える。亭とは馬屋館のことで,駅舎・宿駅を意味する。長屋とあるのは馬屋の誤りか。用明紀元年5月条に,穴穂部皇子と物部守屋の軍勢から逃れた三輪君逆は三諸岳(三輪山)から後宮(きさきのみや)に隠れたとあり,その注に「炊屋姫皇后の別業を謂ふ。是を海石榴市宮と名く」と見える。また,推古紀16年8月癸卯条に「是の日に,飾騎七十五匹を遣して,唐の客を海石榴市の術に迎ふ」ともある。当地は古くから,初瀬川による水上交通と,泊瀬道・横大道・磐余山田の道・上ツ道・山辺の道などが交わる水陸交通の衢として発達し,市・馬屋・宮などがあり,歌垣の場ともされていた。平安期には長谷寺参詣の盛行に伴い市場・宿駅として機能した。たとえば,「小右記」正暦元年9月8日条では藤原実資が女児を祈願するため長谷参詣を行う記述に「午終到椿市,令交易御明・灯心器等」とあり,帰途の同11日条にも「払暁従御寺騎馬,罷出於椿市,国守卿有食儲」とある。「蜻蛉日記」にも「けふも寺めくところにとまりて,又の日は椿市といふところにとまる」「椿市といふところまでは,たひらかなむ」と記している。「枕草子」はこうした情況を「市はたつの市。さとの市。つば市。大和にあまたある中に,長谷に詣ずる人のかならずそこにとまる」と描写する。「源氏物語」玉葛巻にも「玉葛の君をはつせへなんいたし奉るに,つばいちといふ所に,四日といふ巳の時はかりにいける心ちもせでいきつき給へり」とあり古来著名の旧跡である。中世に至っても「仙源抄」は「つばいち。大和長谷詣ノ道ニ有」と注し,「吉野詣記」天文22年2月28日条では「かくてつば市より泊瀬にまいりぬ。所のさま源氏物語にかけるさながらにして」と記している。一条兼良の「南都百首」に「旅ねする枕のたちのつば市にかへてうき身の逢夜しらせよ」と詠まれる。「和名抄」城上郡上市郷は海柘榴市にちなむと考えられ(地名辞書),平安期の東大寺尊勝院領の「椿富庄」もこの名に由来するとみられる(桜井市史下)。現桜井市金屋に海石榴市観音堂があり,この付近に比定されている。ただし,長谷詣の盛行により,平安期以後初瀬川沿いに道路が変更され,横大路と直交しなくなったとするならば,衢の位置はもっと南方にあったと考えられる。ちなみに,現桜井市三輪に椿井,同金屋に餅売・栗買・上市口の小字名が残る(地名大辞典)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7168125 |




