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平城山
【ならやま】


那羅山・那良山・乃羅山・乃楽山・奈良山・諾楽山とも書く。雍良岑・椎山はナラの用字が変化した語。一隔山・一重山とも称する(万葉集765・1038)。奈良盆地北境と京都府木津町との境を東西に走る低丘陵。奈良丘陵の北部。標高90~100m前後。東端と西端に京街道(奈良路)の奈良坂越として般若寺越と歌姫越があり,いずれも古くから利用された。西部は佐紀,東部は佐保と称する。「万葉集」には小松・峰の黄葉・霧・黒木・鳥・児手柏などが平城山の題材として詠まれている。最近はJR平城山駅・奈良坂町一帯に宅地開発の波が押し寄せている。地名の由来については,草木を踏み平(なら)した所を意味し,緩傾斜地を表現するという説(崇神紀10年9月壬子条・県史14),樹名楢にちなむとする説(地名辞書)がある。応神天皇の子大山守命は弟の宇遅能和紀郎子と皇位を争い,弟を殺そうとしたが,逆に図られて宇治川で船から落とされ水死,その遺骨は「那良山(那羅山)」に葬られたという(古事記応神段・仁徳即位前紀)。現在の奈良市法蓮町狭岡神社の北方,小字境目谷に伝承地が残る(大和志料)。また,葛城曽都毘古の女で,仁徳大后の石之日売命(皇后磐之姫命)は「那良の山口(那羅山)」で,故郷の葛城を望み歌を詠んでいる(古事記仁徳段・仁徳紀30年9月乙丑条)。皇后は筒城宮で薨じ,「乃羅山」に葬られたともある(仁徳紀35年6月条・37年11月乙酉条)。「延喜式」諸陵寮には磐之媛命の墓として「平城坂上墓」が見える。奈良期に入り,元明太上天皇は養老5年,右大臣長屋王と参議藤原房前を召し入れ,添上郡蔵宝山の北,「雍良岑」に火葬し,他所への改葬禁止を遺言(続紀養老5年10月丁亥条),同年12月に至り崩御すると,遺詔に従って「大和国添上郡椎山陵」に葬られた(続紀養老5年12月乙酉条)。「扶桑略記」養老5年12月4日条に「陵高三丈。方三町也。自今以後。不作高陵」の注記がある。「延喜式」諸陵寮には「奈保山東陵」とあり,現在の奈良市奈良坂町養老ケ峰に比定される。山際からは遠く三輪山が遠望でき,山を越えれば泉の川・菅木の原に抜け,宇治の渡に至る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7168538