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平城宮跡
【へいじょうきゅうせき】


奈良市佐紀町に所在する奈良期の宮跡。国特別史跡。和銅3年3月から,恭仁京に遷都した5年間を除き,延暦3年の長岡遷都までの70年間に営まれた。藤原宮からの遷都の議は,文武天皇の慶雲4年に起こり,翌和銅元年12月に平城宮地の鎮祭があり,詔からわずか2年で遷都となった。宮跡の調査研究は,幕末の柳沢藩士北浦定政に始まる。彼は,生家(現奈良市古市町)に近い平城の故地を精密に実測し,水田畦畔に残る地割と平安宮の史料を対比し,平城京・宮の規模を復原した。明治維新後,西欧の近代的方法論をとり入れた関野貞らの研究によって平城宮の復原研究は大きく進展,さらに大正13年以来断続的に行われ,昭和34年以降奈良国立文化財研究所が実施している発掘調査は,宮跡の約30%を調査し,関係諸学に多大の貢献を果たしている。平城宮は,平城京の北端中央部に奈良山丘陵を負って位置する。平城宮の平面形は方形ではなく,東側に張り出す特異な形をしている。宮の規模は京の条坊制に規定され,条坊に換算すると,東西2.5坊分・南北2坊分となる。つまり,2坊四方に東西0.5坊・南北1.5坊分の張出部がついた形となる。1坊は令制1里(大尺150丈,小尺180丈,約535m,土地測量には大尺を使用したが,以下は小尺で表記)を単位とするから,計画寸法では各々約1.34km・1.07kmおよび東張出部0.80kmとなる。宮城四周は,基底幅2.7m(9尺),復原高5mの築地大垣で囲み,大路に面して宮城門を開く。宮城門は大伴(朱雀)門・壬生門・若犬養門など氏族名を冠して呼び,宮城四周に3門ずつ,計12門があった。平城宮では東に張出部(東院地区)があって南面に4門を開くが,北面では西門位置に現御前池が,東門位置には平城天皇陵があって門の存在が疑われる。東面の門は未発掘だが,南北約0.8kmの4等分点に3門が開くとすると,西面の3門とは非対称となる。このように,実際に12門があったとしても,諸宮と比べ変則的配置である。また,門号も諸宮に見えない小子門(木簡では小子部門)があり,東院地区の南面門にあてている。宮城門や大垣の施工期は,宮正面の朱雀門の調査では,大宝令の規定に従った過所木簡が,門下層の下ツ道側溝から出土し,門建設の上限が大宝元年であることを示す。他方,壬生門(南面東門)の東では,大垣下層の排水溝から神亀5年の銘年銘木簡が出土し,北面では大垣下層に掘立柱塀があるなど,和銅3年の詔にみる「宮垣未成」が場所によってはかなり後まで続いたようである。平城宮の特徴は,宮の中央に2つの大極殿・朝堂院の区画が並ぶことである。藤原宮では,大極殿・朝堂院は宮の中心に1つしかないから,平城宮の姿はのちの平安宮の朝堂院と豊楽院が並列する形に近い。朱雀門正面の区画を第1次大極殿・朝堂院,壬生門正面の区画を第2次大極殿・朝堂院と通称する。この呼称は,かつて大極殿・朝堂院全体が第1次から第2次に移転したと考え名づけたものだが,調査が進んだ今日では,大極殿は別として,朝堂院が移転したとの考えはなくなり,各々の区画を指すものとなっている。中央区(第1次地区)・東区(第2次地区)の呼称もある。平城宮の大極殿は遷都当初,第1次地区にあった。この大極殿を,東西約177m(600尺)・南北約318m(1,080尺)の築地回廊で囲み,その南面中央に大きな大極殿門を開く。大極殿門の位置は,第2次地区とも共通し,朱雀門心から180丈の所にある。門の左右には高殿と呼ばれた巨大な楼建物を建てる。回廊内の北3分の1を高い段に作り,前面を塼積擁壁とする。段中央に9間×4間の礎石,瓦葺の大極殿,背後に後殿をおき,南側3分の2は砂利敷広場とする。高い段上に巨大な基壇建物を造ることは,規模こそ違え,唐長安城の大明宮含元殿に例があり,その模倣といわれる。この大極殿は,恭仁京大極殿と同規模であり,天平12年頃恭仁京に移建したと考えられている。なお,大極殿院の北に内裏的居住空間を想定する説もある。還都後の天平勝宝5年頃,この地域にはそれまでと性格の異なる宮殿が営まれる。築地回廊を北で約30m南に移し,内裏と同規模の東西600尺・南北620尺の区画とする。そして塼積擁壁の段を南に拡張,大明宮麟徳殿を模した特殊構造の正殿・付属舎からなる27棟の建物を配置した。この宮殿は,延暦3年の長岡遷都時まで存続する。この地域が再び利用されるのは,平城上皇の時代である。大極殿院の南には,朝堂院が付属する。第1次朝堂院は,東西720尺・南北960尺で,南北距離は第2次のそれと等しいが,東西は120尺大きい。この区画は,最初掘立柱塀,のち築地塀とする。朝堂院南門は,5間×2間の礎石建物で,ある時期,南に土廂を付設する。その建設は朝堂と同じく,区画塀よりやや遅れる。朝堂院内ははじめ広場であったが,養老・神亀年間頃までには四堂型式の朝堂が成立する。この朝堂は梁間が4間,桁行が第1堂10間,第2堂21間の特殊な掘込地業による瓦葺礎石建物である。朝堂の前庭では各種の儀式を行っており,関連した仮設建物跡を検出している。朝堂院の南に朝集殿があったか否かは問題である。近年の調査では,築地塀による朝集殿院の区画のみを検出している。第2次地区は,北から内裏・大極殿院・朝堂院・朝集殿院が並ぶ。内裏は,東西940尺・南北1,260尺の外郭中央にある。全体で5期の変遷があり,はじめ掘立柱塀の東西600尺・南北620尺の区画であったが,養老・神亀年間頃,全体を南にずらし,南北を630尺に拡張,のちに築地回廊とした。内郭の建物配置は,和銅遷都当初,正殿・前殿が区画中央部に単独にあったが,養老・神亀年間頃に回廊・塀によって東西に3分し,さらに中央部を南北に3分して正殿・後宮・付属舎をおく配置となる。全体的には平安宮内裏図に似た配置となるらしい。以後は奈良期末までこの配置を踏襲する。太極殿院には中軸線を等しくした礎石建瓦葺きの上層遺構と,掘立柱の下層遺構とがある。大極殿院は上層遺構で,東西410尺・南北296尺の複廊によって画し,南面回廊の東西に内裏外郭の南面築地がとりつく。9間×4間の大極殿は北面回廊の中央にある後殿と軒廊で結ばれる。大極殿下層には7間×4間,後殿下層には10間×2間,閤門下層には5間×2間の掘立柱遺構があり,やはり掘立柱塀による院を形成する。規模は東西240尺・南北270尺。朝堂院の区画は掘立柱塀と築地塀の2期があり,内部には藤原宮同様の十二朝堂の跡が土壇として残る。調査した東第1堂は藤原宮のそれより規模の小さい7間×4間の礎石,瓦葺きの四面廂建物であった。この第1堂から第3堂の下層にも掘立柱建物があり,未調査の第4堂以下にも掘立柱建物が重複している可能性が高くなった。この大極殿の前庭部から朝堂院前庭部には4期にわたる儀式関係の仮設遺構があり,また大極殿閤門の南北両面に土廂を2回にわたって設ける。この遺構には桓武天皇即位に関わると思われる宝幢や四神の旗跡,また3期におよぶ大嘗祭関連遺構などもある。朝堂院南の朝集殿の区画はやはり掘立柱と築地塀の2期があり,上層時期の礎石建朝集殿を検出している。ここで問題となるのは,第2次大極殿院・朝堂院の建造年代と,同地区下層遺構の性格づけの2点である。前者については,「藤原武智麻呂伝」の「宮内改作」を聖武天皇即位を目指した養老・神亀年間の造営とみる立場と,恭仁京から還都した天平17年以降とする立場がある。大極殿は,前説では神亀年間以降恭仁遷都までの間,両地区に並存したことになるし,後説では1基しかないことになる。このように年代差があるのは,第2次大極殿・朝堂院使用の軒瓦(6225・6663型式)の年代観に隔りがあるためである。最近は後説が有力になっているが,それは大極殿院の調査で,上層遺構と下層遺構の軒瓦との間に層位差を認めたこと,下層の軒瓦の年代は養老・神亀年間頃が妥当とされることによる。すなわち,第2次大極殿・朝堂院は天平17年の還都後の造営に関わり,内裏や朝集殿院の区画も掘立柱塀から築地回廊・塀に改め,意匠的に統一したのであろう。下層遺構の性格については,はやくから即位を約束された首皇子(聖武天皇)の東宮と推定されていた。他方,下層遺構も朝堂院で,大極殿下層建物を正殿とし,前期難波宮に見るような掘立柱の十二朝堂があったとする見解がある。しかし下層遺構も朝堂院と考えられ,掘立柱遺構も十二堂の可能性が高くなったこと,最近朝堂院の南面で2つの朝堂を繋ぐ掘立塀を発掘したが,ここでも上層に築地塀が存在するようであり,2つの朝堂院の区画が遷都時から継続して配置された可能性が高い。以上のことから,8世紀初頭,朱雀門正面に中国風意匠の四堂型式の朝堂・大極殿が並び,壬生門正面には伝統的掘立柱建築の十二朝堂およびその正殿があった。正殿の呼び名は課題だが,大安殿説もある。8世紀中葉以降,朱雀門正面の大極殿跡には麟徳殿風の殿舎を営む。大極殿は,壬生門正面に礎石建の十二朝堂とともに新営,院の区画も築地回廊・塀に改めた。掘立柱の朝堂から礎石建の朝堂という時期による変化はあるが,2つの朝堂は8世紀の初めから並存し,平安宮における朝堂院朝堂と豊楽院朝堂の原型となった。史料には,これらの宮殿の宮殿区画をさす中宮・中朝・西宮・西大宮という名称がみえる。西宮がある時期の内裏を指すことは,木簡の記載から明らかだが,ほかの呼称を上記のどの区画にあてるか論議がある。宮の東張出部は東院推定地である。ここには皇太子の東宮がおかれた。8世紀後半には東内とか東院とか呼称したらしい。称徳天皇がここに瑠璃の瓦を葺いた玉殿を営んだ。瑠璃の瓦は,三彩や緑釉の瓦のことで,かなりの数量が出土している。光仁天皇が宝亀年間に営んだ楊梅宮も同所との見解が有力である。東院の中心地には現在宇奈多理坐高仰魂神社があり,未調査だが,南東隅部分では園池の跡を発掘している。園池は8世紀の初頭と中頃の2時期があり,石組や州浜を形造り,八角の楼閣なども建てられた。平城宮が宮の中央に2つの朝堂区画を造り,その東方に東院の張出部を設けたという特異な平面形をとった理由は,国内的な事情とともに,唐長安城の影響を考慮すべきであろう。平城宮では長安城の大極宮と大明宮を模倣して2つの朝堂を造り,そのため大極宮に隣接した東宮を東張出部に設けたというのがこの問題に対する一つの見通しである。百官の男女が日常勤務した二官八省ほかの役所は,宮内の各所と一部京内にある。宮城と官人が勤務する皇城は平城宮では渾然となっているが,諸官衙の配置にあたり,宮の北半は内廷機関,南半には一般官衙を配置したとの説が有力である。平城宮の官衙配置は,遺構の状況と官衙名などを記した木簡や墨書土器,平安京大内裏図などによって復原されている。一部規模の明らかになった官衙に太政官・宮内省大膳職・同造酒司・馬寮があり,その位置が推定できるものに式部省・兵部省などがある。いずれも,掘立柱塀・築地塀によって区画され,南や北などに門を開く。内部には官衙の政庁と考えられる建物と付属舎などがある。役所の格によっても違うが,大半が掘立柱建物で,礎石建物は少ない。太政官推定地は,内裏外郭の東側に東西180m・南北317mの区画があり,その一角を東西64m・南北125mの築地塀で囲む。南区には塼を多量に使った建物や井戸がある。正殿の周囲を倉や脇殿がコの字形に囲み,正殿の北には周りを目隠塀で囲った物忌殿と考えられる建物がある。正殿の正面には竜尾道風の3条の道路がある。ここからは「公事」「私事」と刻まれた塼が出土し,ここを太政官の中心にあてる説が有力である。北区には,これに付属した官衙跡がある。大膳職推定地は第1次大極殿地区の北にあり,西は西池宮に接する。この地区には8世紀前半と後半,平城上皇時代の3期の遺構があり,大膳職は8世紀後半に営まれた。未発掘地などを含め,おおよそ東西235m・南北70mの範囲を築地塀で囲み,3基の井戸とこれを囲む正殿や付属舎・雑舎などがある。大膳職自体3回の模様変えがある。ここの井戸から出土した人形は,目と胸に木釘を打った呪人形として著名。馬寮は西面中門(佐伯門)と同北門(伊福部門)の間,西大垣に接してある。南北に細長い区画内の北側に正殿とその付属舎・雑舎をおき,南半部に幅6m,長さ38m程度の南北に細長い馬房を2棟おき,間の広場を馬場としたようである。この地からは,平安初期の馬寮を意味する「主馬寮」の墨書土器が出土している。式部省・兵部省は壬生門の東西にあり,式部省を意味する「式」「式曹」,兵部省を意味する「兵部」「兵部厨」の墨書土器が出土した。兵部省は,塀で個々に区画した閉鎖的な礎石建物をコの字形に配するらしい。また,宮内各所には谷などの地形を巧みに利用した園池が営まれている。東院の庭園,史料に西池宮と見える現佐紀池下層の池,秋篠川の旧流路を利用し,南苑と見える宮南西隅の池,東院地区の北に接する現水上池などがあり,宮の北方にも松林苑と呼ぶ大規模な園池が営まれた。松林苑の南面築地は宮北面大垣の北240mの位置にある。宮と松林苑との間の余地をいかに考えるか問題となっている。平安宮の例にならいここに大蔵省をあてる説,北松林に対する南の字に着目し,孝謙天皇が大嘗祭を行った南薬園新宮をここにあてる考えもある。参考文献に,「平城京及大内裏考」(東京帝国大学紀要 工科三),「平城宮跡発掘調査報告」I~XIなどがある。




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「角川日本地名大辞典」
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