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熊野三山
【くまのさんざん】


大化の改新で紀伊国に合併し牟婁(むろ)郡となった地域は,往古,熊野国といった。この地域に鎮座する熊野本宮大社(熊野坐神社,本宮(ほんぐう)町)・熊野速玉大社(熊野速玉神社,新宮市)および熊野那智大社(熊野夫須美神社,那智勝浦町)の3大社を総称して,熊野三山または熊野三所権現と呼ぶ。元来は個別の信仰体であったが,次第に祭神を同じくするに至り,一種の宗教的連合体を形成した。熊野という地名は,「続風土記」に「熊は隈にて古茂留義」と説くように山川幽深にして樹木の生い茂るところであり,死者の霊の隠れるところでもある。牟婁は神霊の隠れこもる「神奈備の御室」などの「室」を意味し,クマもムロも,この地域を神の国・霊の国と観念したところから呼ばれた名であった。このような熊野は神話では火神を生んだ伊弉冉尊が熊野の有馬村に葬られたことから,死霊の宿る黄泉の国とされ,また素戔嗚命が根の国に入るに先立って足をとめたことから,死霊の国への入口とも考えられていた(日本書紀)。この天照大神の母神の墓が熊野にあるという伝承が,のちに伊勢と熊野を一体とするという説を生む。三山といい,三所権現といっても,三社の所在地は景観をまったく異にする。本宮は深い山中に位置し,クマノの意味する死霊の国にもっともふさわしい。本宮の祭神は,はじめ熊野坐神で神名がなかったが,のち家津御子神とされるようになってから,樹木の神として素戔嗚命またはその子五十猛神と結びつけて考えられるようになる。しかし平安末期からはもっぱら熊野証誠殿といわれ,阿弥陀如来として信仰されてきた。熊野詣での目的のひとつに,証誠殿の阿弥陀如来に往生の証明をしてもらうことがあった。おそらく,もと本宮のあった大斎原に他界信仰があって,そこに集まる死者の霊の救済者として阿弥陀如来(証誠大菩薩)が出現することが考えられたと思われる。この山の信仰の本宮に対して,新宮は熊野川の河口近くにあり,那智も山を背に熊野灘に面した開けた地で,海の熊野といえる。岩石を神とした新宮,滝を御神体とした那智は,海洋信仰との関連が説かれる。海上他界の常世を信仰の対象とし,その成立には水葬儀礼が先行したと想定される。古代熊野の水葬の伝承とされるものに,少彦名命の「行きて熊野の御碕に至りて,遂に常世郷に適しぬ」(日本書紀)があり,また三毛入野命が熊野の海で「浪の秀を踏みて,常世郷へ往ましぬ」(同前)とあるのも,水葬伝承の神話化であろう。こうした常世信仰は,平安期になって那智の補陀洛渡海に転化する。那智は観音の浄土である補陀洛への入口とされ,熊野灘から補陀洛さして漕ぎ出すものも実際にあったが,古代・中世の補陀洛渡海と伝えられるものの中には水葬例も多く含まれていたとみられる。近世には補陀洛山寺の院主だけが水葬にされた。古代における熊野神を奉斎した人々の実体には未詳な点が多いが,「続日本紀」天平17年1月7日条で外従五位下となり,天平神護元年1月7日に正五位上となった牟婁采女の「熊野直広浜」は,当時の国造級の人物と考えられる。ちょうど天平神護2年に熊野牟須美神(当時は速玉大社の祭神であったと思われる)が4戸の神戸を賜っているのに呼応していることも,これに関係があろう(新抄格勅符抄)。広浜の名は,熊野灘に面するもっとも開けた海浜をもつ新宮付近の豪族の名としてうなずけるものである。平安初期までは,速玉大神(新宮・中御前)と結(夫須美)大神(那智,西御前)は,2社1所に熊野の神邑(現新宮市)に祀られており,「延喜式」神名帳でも「熊野早玉神社」と「熊野坐神社」の2社で,いまだ三山は成立していなかった。これは「長寛勘文」に引く熊野権現御垂跡縁起にも「新宮の東の阿須加の社の北,石淵の谷に勧請静奉つる,始結(早脱カ)玉家津美御子と申,二宇社也」とあって,結神と早玉神と家津美御子神は2社に祀られていたという。三山三社の初見は,「熊野御幸略記」に載せる熊野本宮別当三綱大衆等解で,永保3年には3社になっていたことがわかるだけである。本宮の呼称もまた,この解で初見され,新宮に関しては「扶桑略記」永保2年10月17日条があげられる。熊野夫須美神を分祀して,那智に三所権現の1所を祀る那智大社ができたのは,那智妙法山東麓の大滝を根拠に強力な修験集団ができ,熊野信仰を各地に伝播するようになった結果,三所権現の一所を祀る社として那智大社ができたと考えられる。したがって那智では,神社ができても衆徒・滝衆・行人の修験勢力が極めて強力であった。そして永保2年以前,3社で熊野三山といわれる宗教連合体を結成,那智と同様に修験勢力の伸長の結果,当時,勢力において他を圧した熊野坐神社が本宮と呼ばれるようになった。したがってこの本宮・新宮の呼称は,創立の新旧による区別ではないことに注意が必要であろう。平安末期に至っても,三山の祭神の名称・由来について多くの異説があり一定していなかった。三山がそれぞれの地に個別に発生した山岳信仰や海洋信仰の上に,「古事記」や「日本書紀」の神名をあて,さらには伊弉冉尊の葬所神話から伊勢信仰と結びつけて説くことまで試みようとしたからであった。これらの雑多な神話を集めたのが「長寛勘文」であった。甲斐国守藤原忠重らの熊野領甲斐八代荘の侵犯を熊野所司が民部省へ提訴したため,熊野と伊勢が同体か否かを決する必要から学者に意見を求めた勘文がこれである。結果は,伊勢・熊野は非同体となったが,本宮の祭神の家津御子大神を「延喜式」神名帳にみえる出雲国意宇郡熊野坐神社と同神として素戔嗚尊に,新宮の祭神を速玉大神として,伊弉諾尊が伊弉冉尊の死体にふれた穢をはらうために唾を吐いたとき化生した速玉之男神にあて,那智の祭神を夫須美大神として伊弉冉尊にあてて,これが通説となって現在に至っている。「長寛勘文」に引く熊野権現御垂跡縁起は,三山の縁起として最も古いものであるが,その全文に相当するのが「熊野山略記」所収の「根本縁起」と考えられる(熊野那智5)。これによれば,熊野神は唐から渡ってきた神で,九州の彦山,伊与国石鎚山,淡路国遊鶴羽峰をへて,紀伊国牟婁郡切目山西海の北岸にあった玉那木淵のほとりに飛来し,さらに「熊野新宮南神倉峰」に下った。その後「新宮東阿須賀社北,石淵谷」に勧請し奉り「始テ結・早玉・家津美御子ト申,二宇社」に祀られたとする。熊野神を唐からの飛来神とする縁起は,室町期に流布した御伽草子「熊野の本地」に影響を与えている。熊野三所権現に対して,熊野十二所(那智は十三所)権現という呼称があるが,これは三所権現をはじめとして,若宮王子・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮(以上,五所王子)・一万眷属十万金剛童子・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子(以上,四所宮)を総称したもので,三山ともに祀っている。熊野十二所権現として諸神が整理されるのも平安期以降と思われるが,「明月記」に,本宮の証誠殿,両所(結・早玉)の次に若宮に対して御幣5本,一万十万御前に対して御幣4本を捧げているのが見える。熊野は文化の中心地であった五畿内から峻険な山と海に隔てられ,三山に至る交通路はいずれも困難をきわめた。それ故に熊野は聖地とされ,熊野への道は宗教的修行路の性格をもっていた。熊野への参詣道のうち,大辺路(おおへち)・中辺路・小辺路と呼ばれる街道があった。辺路はやがて四国の海辺を回る通路に化すように,俗人の熊野詣でとなる以前は,辺路修行者の修行路であったと推定されている。平安中期ころの金峰山の修験興隆と熊野詣での盛行に伴って,摂津からの紀州街道がもっぱら在俗者の熊野参詣道となるに及び,金峰山から弥山を経て,南へ熊野まで続く大峰山系の山岳が熊野を訪れる修験者の修行道として開かれるようになる。那智の大滝が那智山の奥之院ともいわれる妙法山に登るための禊祓をする地でもあったため,多くの堂社が建立され,一大霊場として滝籠や山籠修行を行う修験者が多く集まるようになった。こうして,これらの修験者によって熊野修験が形成され,熊野本宮から吉野へ出る順峰(春の峰入),吉野から熊野へ越える逆峰(秋の峰入)が大峰修行の故実となった。この修験者の行場であった熊野へ,宇多上皇のころから貴族の参詣もみられるようになった(扶桑略記)。その後院政期に入ると,熊野詣では急激に盛行する。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の院政4代,約100年ほどの間に100回近い熊野詣でが数えられ,ことに後白河法皇は「本宮三十四度,新宮那智十五度」の御幸があったとされ,朝廷・貴族の熊野詣では,この時期頂点に達する。当時人々を熊野詣でにかりたてた背景には,平安中期以来の浄土信仰があったが,上皇らの参詣はその規模も一行数千人に及ぶこともあった。熊野詣での隆盛に伴い,熊野先達と称して参詣者の道案内をする山伏が現れ,宿坊を提供し,祈祷の所務もつかさどる御師の組織が確立したことも参詣の発展に役立った。また触穢を緩和して女性の参詣を容易にしたこともあって,熊野信仰は広く貴賤に伝播した。熊野への参詣路は大別して伊勢路と紀伊路があった。東国からの参詣者は多く伊勢路を利用し,京都や西国からはもっぱら紀伊路で,ことに中世までは紀伊路が本道であった。京都からは淀川を下り川尻の第一王子窪津王子(大阪府)につき,紀伊田辺から東へ山路をとり,湯峰を経て熊野本宮までを中辺路と称し,院政期上皇の参詣路は主としてこれであった。この第一王子から本宮を経て,新宮・那智に至る沿道の所々に三山の遥拝所が,熊野詣での全盛期に設けられた。これを熊野王子といい,実数は時代によって増減するが,総称して熊野九十九王子という。王子の初見は「大御記」永保元年9月24日条で(県史古代1),九十九王子の初見は下って文明5年蓮春の著した「九十九王子記」(無窮会神習文庫所蔵/神道史の研究2)とされる。南北朝期ごろまでの熊野三山組織の頂点に立つものに検校と別当があった。検校は宗教的権威を表徴し,寛治4年白河上皇第1回の熊野御幸に際し先達を勤めた三井園城寺の僧増誉が,その勧賞として補任されたのに始まる。増誉は三山に苦修練行の功を積み修験の道に鍛練した高僧として世に知られたが,この増誉の三山検校補任をもって熊野修験の完成とみなしている。以来,熊野三山検校は,鎌倉初期例外的に東寺の僧が補せられることがあったが,増誉の先蹤にまかせてもっぱら修験道に長じた寺門の高僧をもって任じた。しかし,検校は行政上の実権をもつものではなかった。これに対して別当は全山の内部組織を実質的に統轄していた。その成立も検校に先駆け,初見は「権記」長保2年正月20日条に「熊野別当増皇」とあるもので,増誉が検校に補されたころ,別当長快も法橋に叙され,官符によって熊野別当に僧綱を与える初例となった。別当は世襲の妻帯僧で,もと新宮に起こり那智山別当も兼ねたが,湛快ののち,新宮と,本宮による田辺一派に分岐し,2つの別当家から交替で出すことになり,これが以後2家抗争の原因にもなった。源平の合戦にあたり,当初は新宮別当方が源氏に,田辺別当方は平家に味方した。田辺別当湛増は,湛快と源為義の娘丹鶴姫(鳥居禅尼)との子といわれ,のちには源氏方となり,文治元年には熊野水軍を率いて源義経に従い,平家を屋島・壇ノ浦に撃滅した。しかし承久の乱には院方に参じたため,乱後次第に職権をそがれ職制も形骸化していった。これに代わって台頭したのが衆徒と神官の上座にあった熊野上綱の七家であった。承久の乱によって朝廷・貴族の有力な外護者を失ったのち,熊野信仰は武士・土豪から一般庶民にまで檀那層を拡大するが,これには修験道の発達に伴い確立しつつあった三山の御師と熊野先達の結合による組織が大いに寄与していた。この御師と先達を配下に置く上綱七家は三山と熊野を統治するようになっていった。熊野詣でに際し,参詣者は三山の特定の僧に祈祷を依頼し,その坊に宿泊したが,この御祈祷の師を略して御師といった。熊野御師の初見は「中右記」天仁2年10月26日条で,当初御師は参詣の時だけ臨時に定められたが,次第に御師と檀那の間に師檀関係が成立し,御師職も世襲的なものとなっていった。鎌倉期になると熊野御師は東国をはじめ各地の武士団に教線を拡張し,武家との師檀関係の締結に際しては,宗家を檀那とすることにより一族を一括して掌握,さらに宗家を介してその姻戚・家臣・被官へと教線は及んだ。室町期には武家の領内の農民も檀那とし,畿内など先進地域では,熊野講を結成して檀那を掌握する方法もとられた。御師は本宮・新宮・那智の三山ともに見られ,本宮の来光坊,新宮の鳥居在庁,那智の尊勝院・実報院はその代表的なものである。三山の御師の総数は明らかでないが,戦国期から近世にかけて御師家の合併吸収が起こり,総数としては減少傾向をたどっている。熊野三山では伊勢やその他の寺社と異なって,御師と檀那の間に先達が介在した。先達は御師と契約し,その配下として檀那の熊野詣での際の嚮導・配札などをした。熊野先達の初見は永保元年藤原為房が熊野詣での際に観増を先達に依頼したというものである(大御記/県史古代1)。熊野詣での先達には,元来各地から熊野に修行に赴いた修験者が,自己の出身地の近在の檀那の先達にあたることが多かったが,のちには京都や檀那の領内に定住した修験者が先達にあたった。彼らの主な仕事は,檀那の熊野詣でに嚮導者としての役割を果たすことであったが,御師の依頼を受けて巻数・守札・牛王宝印などを檀那に配布もした。御師・先達にとって,檀那は得分をもたらす財産であったため,檀那が株として相続・譲渡されるようになっていった。檀那株の売買は鎌倉期にもみられるが,室町期応永から永正にかけてのほぼ120年間にもっとも多く,この間有力な御師や先達による檀那の集積がすすみ,また檀那株や御師株が投資の対象として高利貸資本の注目・介入を招いた。別当家衰退後の熊野三山は,これら御師と熊野先達によって実質的には維持されていた。しかし,それまで三山の配下にあった熊野先達は,このころ,別の組織化の道をたどっていた。鎌倉末期,中央では各地の熊野先達を包括した聖護院と畿内の先達を掌握した興福寺東西金堂の2つの修験組織が,次第に成長しつつあった。聖護院は初めて熊野三山に検校に補せられた三井寺の増誉が白河上皇から賜った寺で,のち後白河上皇の皇子静恵法親王が院主になってからは,門跡寺として寺門派内で重きをなすようにもなっていた。14世紀初頭,聖護院門跡覚助法親王が園城寺長吏と熊野三山新熊野検校を兼任したあと,熊野・新熊野の検校職は聖護院門跡の重代職と考えられるようになり,聖護院門跡の天台系修験の統轄者としての地位の確立をみることとなった。この系統をのちに本山派といった。室町期初頭,聖護院門跡は東山若王子を熊野三山奉行として熊野先達を管轄させ,また先達を配下に擁していた住心院や積善院などを院家として,教団体制を確立した。院家はまた全国各地に自己の管轄地域をもち,配下の先達や年行事を置いて末端の修験者や檀那を掌握するという方法をとった。こうして全国各地の熊野先達は,聖護院を頂点に,若王子をはじめとする院家を中核に置いた本山派の教団機構内に位置づけられていった。いっぽう興福寺東西両金堂を中心に,吉野の金峰山寺をはじめ大和の寺院の修験者が集団をつくるようになっていた。これらはのちに当山派と呼ばれ,組織化は本山派より遅れた。その主要な成員は,当山派三十六先達衆と称され,全国各地を回国して弟子をもち,地域ごとに袈裟頭を置いてその他の修験者を掌握させていた。戦国期に入ると,興福寺末の諸寺院が真言寺院として独立していく趨勢のなかで,当山派先達衆も興福寺東西両金堂から離れ,室町幕府の帰依を得て,満済以後真言宗で中心的な位置を占めるようになっていた醍醐の三宝院に接近し,最終的に当山派は三宝院に統轄されることになった。院政期の熊野信仰の隆盛と,たびたびの御幸に際しての社領の寄進等によって,熊野三山は諸国に莫大な所領をもっていたが,南北朝期を経て室町期に入ると,諸国の荘園のうち年貢収納が可能であったのはわずかの所領にすぎず,ほとんどの荘園は有名無実化し,国内の所領も守護方に押領されていた。そのため経済的には有力御師と先達の活動に支えられ,社頭の修理などは熊野山伏や比丘尼・十穀聖などの勧進活動に負うところが大であった。熊野山伏は祭文や語りもの,その他の芸能を加味し,熊野比丘尼は歌念仏を唱えるなどして世俗を勧進した。天正年間,豊臣秀吉の紀州平定で社領はすべて没収されたが,慶長6年,三山それぞれに朱印地が与えられ,これが明治4年まで続いた。近世に入ると民衆の一般的な寺社参詣は飛躍的に発展した。交通環境の整備と生活条件の向上は,参詣の観光化をすすめ,熊野先達も檀那の要望に従って熊野以外の寺社への先達も行うようになり,立地的に条件の悪い熊野は次第に衰退し,社殿の荒廃も目立つようになっていった。享保6年には徳川吉宗が三山の造営修理のための諸国勧化を許可し,同19年に3万9,000余両を費やして三山の社殿が造営された。さらに同21年,吉宗は本宮社家に修理料として2,000両を寄進。これを資本にしたといわれているが,以後熊野三山の経済は貸金と富くじによる金融資本業の上に成立することになった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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