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上村
【こうのむら】


旧国名:紀伊

(中世)鎌倉期~戦国期に見える村名。那賀郡荒川荘のうち。高村・香村とも書く。北は小路村,西は市場村,南は神田(こうだ)村と接する山沿いの村である。文治2年5月日の高野山住僧等訴状(高野山文書/大日古1-1)に「当庄(荒川荘)最上上村南北十余町,東西不知其数,田仲之方踏入畢」と見え,田中荘の預所佐藤仲清の子能清が荒川荘に打ち入り,濫妨を働いた旨が記されているが,この「上村」は当村のことと思われる。また建仁2年5月13日の高橋末貞田地去状(高野山文書/大日古1-3)に「荒河御庄〈字上村山崎藤木本〉」とあり,当村内の「限東中畔 限南谷 限西中立 限北岸」の田地が負物代として北室阿闍梨御房に渡されている。同4年2月3日の僧得仁常地売券(同前1-5)には「紀伊国那賀郡荒川御庄上村字小角桓(垣)内」と見え,180歩の田が能米2石2斗で売り渡されている。また嘉暦3年9月3日の僧篋有田地充文(同前1-3)には「高野御領荒川庄高村〈字山崎〉」と見え,荒川荘内の当村の水田1反が教光房に宛行われている。さらに南北朝期の建武2年10月21日の阿闍梨宗助御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-2)によれば,「荒河庄内上村字広田宗助知行分作人孫次郎」の田60歩が御影堂陀羅尼料田に寄進されたという。室町期の応永13年3月晦日の僧快全学道衆竪義料田寄進状(同前)には「〈高野ノ課役アリ〉一反〈山崎今ハタナ田ト云フ定田一石〉作高ノ村ノ与太」と見え,そのほか「安楽川ノ高ノ村道ノハタノ薬師堂田小アリ,作ハ三郎也」と見えるが,高野山の学道衆竪義料田として注進されている。また応永32年5月26日の天野社一切経会段米納日記(同前1-4)に「コウノ村」と見え,荒川荘1石5斗7升5合のうち,当村は3斗5升を割り当てられていた。なお,古くから「続風土記」などで「応永の旧記」と称されている安楽川荘検注帳(平野家文書/県史中世1)には永正8年の記事も見えるが,畠之分として「フソウ 下三百卅歩 二斗四升 代百八十文 上ノ 刑部二郎」「ヤクサメテン 下一段半 二斗一升 コウノムラ エモン」とある。なお明徳2年の年紀を有する諸供領臈次番付書(高野山文書/大日古1-8)に「百六十六臈 荒河庄香村定田四斗五升麦三斗五升 空達房寄進 作人片山三郎」「百九十七臈 荒河庄香村水田一反字坪井」などが見える。また永享9年の安楽河卅人供料納日記(同前1-5)に,「ソハ七升 香村島孫次郎 十一月六日」などとあり,当村の衛門五郎・孫太郎・与太・左近五郎らが,蕎麦・米などを法楽寺に納めていたことが知られる。さらに嘉吉元年の安楽河三十人所当注文(同前1-5)に安楽河三十人所当事として3石3斗1升2合のうち,「壱斗 高村衛門五郎」「五斗六升 高村ノ犬松」「一斗四升 高村道念」「一斗八升 高村孫太郎」「三斗一升三合 高村ノ平野殿」「二升 高村 孫太郎」「二斗八升 高村左近五郎」「三斗一升七合 高村 平野殿」「一斗五升 高村ナコソ衛門太郎」「八升 高村 林」と見える。また戦国期から書きつがれた三船神社造営引付(三船神社文書/県史中世1)に「庄之衆奉行日ニ二人ツゝ仕候……コウノムラ 源三郎」「新座衆 三貫文宛出 コウノムラ玄内子付 衛門二郎」など当村名が散見する。その後,戦国期には川村と称され,現在の桃山町元に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7171511