境村
【さかいむら】

旧国名:紀伊
(近世)江戸期~明治12年の村名。牟婁(むろ)郡のうち。「元禄郷帳」「天保郷帳」では下芳養(しもはや)を冠称。古くは堺村とも書いた。芳養川上流の田川上流域に位置する。地名は,古くは下芳養荘と上芳養荘の境界地にあったことに由来するという(続風土記)。下村・芋村などとともに下芳養村を構成。和歌山藩田辺領城付。芳養組に所属。村高は,慶長6年の浅野左衛門佐殿知行持高写には「下芳養堺村」として260石余(万代記)。「天保郷帳」282石余,「旧高旧領」では284石余。「元禄郷帳」には当村枝郷として「田川谷村」が見え,「天保郷帳」には「古者堺村・田川谷村,弐ケ村」とあり,「続風土記」には小名としてその名が見える。御高並村名帳によると村高282石余うち新田高22石余(南紀徳川史10)。慶長18年12月5日の日焼所追免覚には「一,七分 境村」と見え,同年日損による減免がなされた(万代記/大日料12-13)。「続風土記」では家数76軒・人数362。安政6年の家数人数牛馬数書上帳には家数47・人数208,牛15,ほかに境村の内として田川谷の家数29軒・人数154,牛14(田所家文書)。文化5年の風土記新御撰ニ附御尋之品書上帳によれば,小名は阿坂・大坪・梅ノ木がある(同前)。明治4年田辺県を経て和歌山県に所属。同6年には戸数84,男186・女189。同12年西牟婁郡に属し,同年下芳養村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7171674 |