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神宮郷
【じんぐうのごう】


旧国名:紀伊

(中世)戦国期に見える郷名。名草(なぐさ)郡のうち。日前・国懸神宮領の総称。社家郷・宮郷ともいう。江戸期の「続風土記」には「迦宇能美也」とあり「こうのみや」とよんでいる。郷名は天文15年12月30日付の弥勒寺看坊補任状写(日前宮古文書/続風土記)に「神宮郷吉田郷之内弥勒寺之看坊」と見えるのが初見。ついで天正3年11月25日付の金剛宝寺鐘銘に「紀州名草郡神宮郷内紀三井山金剛宝寺」と見える(紀伊国金石文集成)。これより先,鎌倉期の嘉禎4年9月25日付の日前国懸宮四方指(日前宮古文書/和歌山市史4)には,8方向の神領の境界が記されており,他領と境を接している同宮領11か郷の名が知られる。永仁3年3月に日前・国懸宮は当郷諸郷に対し一斉に検注を行い,郷ごとに検田取帳并検畠取帳を作成した。「続風土記」によれば,この帳簿は小宅・和太・有家(ありえ)・田尻・内原・吉田・大田・忌部(いんべ)・秋月・神前(こうざき)・津秦・本有真・新有真の13か郷分が存在していたことがわかる。さらに同年の諸郷奉分田所当注文(同前/国立史料館蔵)では,それらのほかに新薢津・新永沼・黒田・毛見・船尾の郷名が見える。また他の史料より薢津・永沼・南有本(本有本)の諸郷が鎌倉期から南北朝期に存在したことが知られ,戦国初期には鳴神郷・中島郷の名が見えるようになる。他方,紀ノ川の氾濫で不安定であった当郷北部の諸郷のうち,薢津・新薢津・永沼・新永沼・南有本の諸郷の名が室町期には見えなくなる。以上から,当郷は日前・国懸宮を中心にして,西は和歌川によって,東はほぼ大日山・福飯ケ峰から名草山・船尾山を結ぶ線によって限られた,紀ノ川南岸から現海南市船尾に至る南北に細長い地帯にまとまっていることがわかる。なお当郷の南東部に隣接する和太荘(五ケ荘)の地も元は日前・国懸宮領であったといわれ(日前宮古文書/国立史料館蔵),後述のように同宮は五ケ荘に対し種々の役を課し,上分を取っている。「続風土記」は当郷の成立について,「国造家旧記に永承四年名草郡三千町を日前国懸両宮に寄附すとあり」と説明しているが,天養2年3月28日付の大伝法院陳状案(根来要書下/平遺2554)の記述も注目される。それによれば,「前司親能之任,以去保延六年二月十八日,以社辺巨多之公地,建四至一円之神領」と記されており,それまで各地に散在していた日前・国懸宮の神領が,藤原親能が国司の時の保延6年に同宮周辺の地にまとめて設定されたことがわかる。前記の諸郷から成る当郷の原形はこの時にできたものと考えられよう。また公地をもって一円神領地としたとあるごとく,国衙領の系譜を引く神領の支配単位は郷で呼ばれた。紀ノ川の南,和佐・岩橋(いわせ)・栗栖(くるす)荘を通って西に流れる宮井(神宮井)の用水は同宮の管理するところで,鳴神で分水して南の和田川までの当郷の水田を潤した。前記の永仁3年3月の検田取帳并検畠取帳(日前宮古文書)には,日前・国懸宮の供田,神官・神人・職人などの給免田,預所名・刀禰名・百姓名などの名,寺社田などが見える。同宮周辺の郷には,供田・給免田の割合が多く,また神官・神人・職人などの屋敷地も多い。同宮から離れた郷には,百姓名が多く形成されている。前出の諸郷奉分田所当注文には,百姓名34名,また同注文にはみえない吉田郷に4つの百姓名が存在しており,合計38名が知られる。なお応永30(35か)年4月日付の日前宮下白冠千顕目安(同前/続風土記)には,「社家領三十六名」とみえ,室町期には同宮が支配する名は36名に減少したものと思われる。応永27年6月日付の日前国懸宮神官等申状案(同前/和歌山市史4)によると,国造一族が社役をつとめ,これら名田を配分され支配していた。また応永35年と推定される年月日未詳の紀伊国造家雑掌申状案(同前/続風土記)では,36名のうち18名が「本荷前之預所」に属し,この預り所は,国造の代官と記されている。各郷には,刀禰がおかれ,郷によっては預り所・公文が設置されていた。また元亨元年10月26日付の預所某下知状(同前/和歌山市史4)では,船尾郷の郷司が見える。刀禰は日前・国懸宮の青侍でもあり,毎年正月下旬の堰祭では,酒・肴を出し参加している(応永6年11月1日写日前宮年中神事記/東大史料影写本)。当郷の地は,室町期の応永5年2月29日に足利義満,永享4年10月9日には足利義教から,守護不入の地として認められている(日前宮古文書/和歌山市史4)。さらに享禄4年7月25日には足利義政から段銭・臨時課役・守護役が免除されている(同前/続風土記)。当郷は,文明12年に西隣の雑賀(さいか)荘と,蔵六芝・西芝をめぐって境相論を行っている(同前)。ところで,当郷の地は先の応永27年の神官等申状案によれば,日前・国懸宮の「年中三百八十余度大小神事要脚之地」であり,神事・祭事役を当郷が勤めていた。応永6年11月1日写の奥書をもつ日前宮年中神事記(日前宮古文書/東大史料影写本)は,この時の諸郷の負担する主な役のほぼ全貌を示すものと思われる。各種の神事の中でもとくに9月26日の臨時祭には仮屋の建造,饗膳・酒の用意に当郷の諸郷が動員されており,毛見・内原・神前・和太・吉田・大田・忌部・有本・田尻・秋月の各郷の名が見えるとともに,当郷でない「五ケ庄百姓」も屋根葺の奉仕を義務づけられている。また五ケ荘のうちの黒江郷・三葛郷は神宮郷の毛見・船尾両郷とともに浦役を負担している。戦国期になると,当郷の百姓等は惣郷という組織をつくる。享禄3年と推定される2月19日付の惣郷百姓等申状(同前/和歌山市史4)では,棟別銭・郷銭の免除など7か条を神宮公文所に訴えている。また天正5年と推定される日前宮領惣郷百姓等申状(同前/続風土記)では,流鏑馬の馬1騎不足の件について,被官衆と惣郷が談合を行っており,惣郷として流鏑馬の神事に関与していること,神官の被官衆から独立した存在であったことがわかる。元亀3年5月吉日付日前宮炎上日記(同前/和歌山市史4)によると,惣郷の会合所が秋月郷の神宮寺であったことがわかる。日前・国懸宮の神領は十数か郷から成っており,神領全体をさす神宮郷は,各郷が神領として編成された時点からすでに実体として存在したはずである。しかし実際に史料上「神宮郷」の呼称が見られるのは前述のように戦国期になってからであり,それは神領全体を1つにまとめる百姓の惣郷組織の形成に対応するものとみることもできよう。さて戦国期には,雑賀五組の1つとして社家郷(宮郷)が見え,永禄5年7月吉日の湯河直春起請文(東京湯河家文書/県史中世2)には「社家郷 中島 島田殿,神崎(前)中務殿」とあって,当郷も雑賀一揆に加わっている。天正13年豊臣秀吉の紀州攻めの際,雑賀一揆の一部は当郷内大田郷にある太田城に立てこもり最後まで抵抗したが,水攻めにされて4月22日に降伏,53人が殺害され,その女房23人がはりつけにされ,当域も放火されたという(中家文書/大阪の歴史6)。その直後の4月25日付で羽柴秀長の禁制が社家郷に出されている。神宮もこの時社殿を破却され,社領を没収されており,ここに中世的な日前・国懸宮領神宮郷は解体した。日前・国懸宮は,近世に入ると慶長6年12月6日,浅野幸長によって,同社の位置する秋月村に社領15石5斗の地が与えられている(日前宮古文書/国立史料館蔵)。現在の和歌山市黒田・吉田・太田・秋月・鳴神・有家・津秦・手平1~6丁目・神前・田尻・坂田・和田・内原・毛見および海南市船尾の地域に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7172043