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東村
【ひがしむら】


旧国名:紀伊

(中世)鎌倉期~戦国期に見える村名。那賀郡のうち。粉河(こかわ)寺領。戦国期には東ノ村・東野村とも見える。承元5年3月27日の比丘尼蓮阿弥陀仏田地売渡状(王子神社文書/県史中世1)に「合田壱段者,在粉河寺御領内東村〈字悦谷南端〉」とあるのが初見で,観修房に地内の耕地の一部が売り渡されている。なお正暦2年11月28日の太政官符写(粉河寺文書/同前)に見える「粉河寺所領鎌垣東西村」は当村の前身とも考えられるが未詳。西村に対して東村と称したものと考えられる。当村は粉河寺領を形成する5か村の1つで,粉河寺六月会の頭役を勤仕していた。現在粉河町東野にある王子神社は当村の鎮守であり,鎌倉後期からこの王子神社(若一王子神社)を中心に宮座が営まれ,「惣」的結合が展開したところとして知られる。王子神社には上述の承元5年の田地売渡状をはじめとして,鎌倉期から戦国期にかけての村落共有文書が200数十点も保存されている(王子神社文書/同前)。鎌倉期の47通に限ってみると,田畠の売渡状・充文・寄進状・処分状がそのほとんどを占めている。これらの文書に見える当村の小字名としては,悦谷(うれしいだに)・つか原・鬼和田・平林・王子・王子東・上野垣内・権介垣内・魚谷(いおだに)・中尾・橘池・八段坪・行祥内・金王垣内・大谷垣内などがあり,「善実名内悦谷」「千楽名」などの名も見える(同前)。これらのうち,王子・王子東は現在の粉河町東野にある王子神社付近,魚谷は現在の粉河町井田の小字魚谷(うおだに),悦谷は現在の粉河町東野の小字嬉谷に比定される。弘安元年12月3日の日熊国宗紀友恒連署田券紛失状(同前)に「右田地者,一村諸衆一同仁弐処仁,本壱貫三百文之質仁雖入之……今一村諸衆仁申天,所立紛失状也」と,正応2年11月13日の小法田地処分状(同前)には「而間惣内仁永代限是渡」と,同5年2月10日の阿闍梨長命田地充文(同前)にも「然惣内譲与処実也」とあり,農民層の自立を背景に鎌倉後期から惣結合が形成されていたことが知られる。王子神社文書のうち鎌倉期の文書の多くは,南北朝期になって村内の寺社(王子神社・勝福寺・極楽寺など)にあてられた寄進状もしくは売渡状の連券と考えられ,南北朝期ごろに村内の田畠が買得あるいは寄進を通じて当村内の寺社や惣村に集められ,惣有財産として当村の経済的基盤となっていたことを示している。なお,王子神社・勝福寺は鎌倉期から存在していたと考えられるが,極楽寺については康永3年2月2日の円阿弥陀仏山地寄進状(王子神社文書/県史中世1)で「村堂造栄(営)」のため敷地が寄進され,正平21年3月14日に楠熊女が荒野1か所を「極楽寺阿弥陀仏」に売却して以降極楽寺に対する寄進がはじまり(同前),応安8年には東村の村民77名による74貫200文の勧進がなされ,王子神社の神宮寺として成立したものと推定される永仁4年12月27日の藤原竹恒同恒清連署田地売渡状(同前)によれば,魚谷にあった田地35歩が池代として「東村之人」に売却されており,また延慶2年2月11日の魚谷池敷契状(同前)および同年2月12日の中五谷池敷契状(同前)によれば,「仏□□(性名)内魚谷池敷」135歩および「仏性名内中五谷池敷」100歩を当村の所望により,粉河寺から当村に与えられている。とくに「魚谷池敷」はもと100歩あったものが,このときは40歩に減少しており,機能の低下した灌漑池が村人の所望で村の管理下に移されたことが知られる。建武元年12月25日の仙恵池代地売渡状(同前)でも「池代地」が尊定坊に売り渡されているが,暦応4年2月日の僧仙基池敷地放状(同前)では,百姓等の訴えにより「喜谷池敷」が当村の管理下におかれ,翌康永元年12月には,この悦谷池拡張のため北側に隣接した土地が池代として熊若女から「東村悦谷池之勧頭田徒衆」に売却されるなど当村の主要な灌漑池の管理権が村人の管理下に移っている(同前)。その他,康永3年2月2日には「山地」が(同前),正平13年6月26日には「荒野」が(同前),下って応永14年3月日には「舟」が寄進されており(同前),農業再生産に必要な山野・舟・用水などの資源を村人の自立管理下におき,村政を自治的に運営していたことがわかる。永享8年閏5月8日の東村悦谷・魚谷両池水配分注文(同前文書/県史中世1),文明7年6月20日および同年6月日の悦谷池分水本帳書抜(同前),永正元年7月4日の悦谷池分水本帳書抜(同前),同年月日の魚谷池分水本帳書抜(同前)などによれば,番水を管理する者が勧頭(かんど)と呼ばれ,用水の配分をうける権利が「筋」で表されており,その他細かな規約が定められていたことが知られる。惣の規約の初見は,永享8年閏5月8日の東村悦谷・魚谷両池水配分注文の紙背に記されていた東村百姓定状案(同前)で,「定おく東村地下之人集一同状」で始まっており,「茶家平内二郎」を「地下ニおくへからす」と定められている。以降延徳3年神無月24日・明応5年6月3日・文亀2年8月27日・永正5年12月24日・同7年8月12日などの定書が残されている(同前)。永享2年に作成されたと推定される東村検注帳(同前)には奥欠で集計は記されていないが,約30町・400余筆の耕地が記されている。この検注帳によれば,当村の北東に隣接する粉河寺領丹生屋(にうや)村を本拠とする在地領主の丹生屋氏は,当村内に1町余の田地を所有していたが,文明10年の東村丹生屋殿知行分指出案(同前)・東村丹生屋殿下地注文(同前)などによると6町8反余に増加しており,大きく当村に勢力を伸ばしている。しかし,天正13年に原型が成立したと推定される「粉河寺旧記控」によれば,この丹生屋氏は「当山の大将」と称されるほどの有力者であったが,同控に「文明四辰年十月五日丹生屋殿跡寺家より知行仕ニ付」とあり,没落していたことが知られる(粉河寺文書/県史中世1)。文明10年8月20日に書き替えられその後書き継がれた王子神社名附帳によれば,王子神社の宮座は「山殿」と称され,東座・西座からなっていた。宮座が成立してから約100年後にこの名附帳が作成されていることは,文明8年以降書き継がれた粉河寺六月会頭役引付(王子神社文書/県史中世1)の文明8年の項に10月の「念仏頭」,正月の「童頭」が初めて見えることとともに,上述の丹生屋氏の没落を背景に宮座が再編されたことを示している。文明10年の構成員は東座32家・西座19家であったが,徐々に東西の対立が激化し,永正18年以降西座は消滅している。なお天正13年に原型ができたと推定される「粉河寺旧記控」によれば,応仁元年5月8日の高野山領名手荘と粉河寺領丹生屋村の水論の際,粉河寺方に「井田・東村・藤崎」とあり,また文明6年7月6日には当村と松井村の間で川漁猟をめぐって相論が起き,粉河町衆が松井村に加担して当村に放火したことが知られる(粉河寺文書/県史中世1)。また同控に「一,東野村,今高野野街と云,井田・池田垣内・藤崎此四ケ村古ヘハ一所ニ而,七年ニ一度ツゝ村庶々祭礼之節」と見える。上述の王子神社名附帳には,当村の小字名として「池田カヰト」「ヰタ」「谷北」「南」「上ノカヰト」「辻」「上」「北」「堀」「林」「土屋」「岡田」などが見えるが,天正12年以降は「井田」「中村」「池田垣内」の3つに限定されてきている。「井田」が現在の粉河町井田,「池田垣内」が現在の那賀町王子・藤崎,「中村」が現在の粉河町東野に比定されることから,当村は粉河町井田・東野,那賀町王子・藤崎一帯に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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