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大江神社
【おおえじんじゃ】


八頭(やず)郡船岡町橋本にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は天穂日命・大己貴(おおなむち)命・三穂津姫命ほか。正一権現とも称し,また近世の財原村にあったことから財原大明神とも称する。創祀は未詳。「文徳実録」仁寿元年10月10日条に大江神・志保濃神(現塩野上神社)・都波奈弥神・伊蘇乃佐伎神・都波只知上神に従五位下を授くとある。これらの神々はすべて八上(やかみ)郡にあるから,この時の神階昇叙には何らかの政治的配慮があったと見られる。「延喜式」神名帳八上郡条にも,この5社が名を連ねており,また大江神社の3座をはじめ5社すべてが複数の祭神を有しているのも,きわめて特徴的である。古代におけるこの地域の特殊性を示唆するものといえよう。当社はその中心的存在であったと思われる。当社の鎮座する橋本はもと「土師本」ではなかったかともいわれ(県史1),船岡町一帯と同じく,土師氏とも深い因縁があったと考えられる。祭神の天穂日命以下3神が土師氏の祖神と考えられていたことも考え合わせる必要があろう。社伝によれば,貞観年中,因幡(いなば)守大江氏雄が当社を再建し,後二条天皇の時に正一位に預かった。その後大江広元が氏神として崇敬したといわれる。長治2年7月11日の因幡国大江社神主上野清永解(平遺1645)によれば,この頃比叡山上座行算の使と称する一万法師という者が当社神主職・社務職を押妨したという。神主の訴えに対し,上座行算は一万法師は自分の使ではないと返答したので,その返答状を一万法師に見せたが,一向承知しない。そのうえますます乱行を働くので,再度比叡山に訴えたのが本解状である。前後の事情が不明なので十分なことは分からないが,いずれにせよこの地域に比叡山の一勢力が入り込み,当社運営の中枢が危機に直面していたのは確かである。永万元年6月の神祇官諸社年貢注文(平遺3358)には,因幡国として上宮(宇倍神社)と「大江社 布卅段進」とが見え,この布30反とは,当社が神祇官に対して負っていた年貢に相当するものであった。因幡国内ではこの2社のみが書き上げられているが,他国においてはおおむねその国の一宮・二宮に列する大社・名社が名を連ねている場合が多いので,当社は因幡国二宮ではなかったかと見る説もある(県史2)。「稲葉民談記」には,当社の嘉元3年12月8日付の棟札を載せている。それには「正一位権現造営」とあり,また「大勧進地頭平宗泰」「宮司藤原泰継」と見える。同じく民談記に「応安三年十一月廿七日比,造上棟遷宮」との柱銘を掲げているが,それにはさらに「惣領地頭重実(重泰子),駿河太郎氏泰(貞泰孫),右京亮重泰,財原能登守義親」らが,当所の平氏子孫・家門繁昌などのために当社造営に参加したと記されている。これらの者は「八東郡誌」には大江谷の領主であった伊田氏であるとしている。鎌倉期から南北朝期にかけて,当社は在地武士層の結集の場になっていたのであろう。「師守記」貞治3年2月26日から同年3月6日条にかけて,内裏の庭中において「幸千代丸申因幡国大江・賀露両社神主職并都鄙漆物等事」が裁決されている。内容の詳細は不明だが,当社および賀露社(現鳥取市賀露)の神主職が,この前年より訴訟の対象となっていたのである。先の貞治7年の造営事業と何らかの関連を有していたとも推定できるが今のところ未詳。近世に至り,元禄年間に大江神社の社号を復し,享保年間に本殿・拝殿・神楽殿を改築したと伝える。「因幡志」には「神郷中の大社なり」とし,近世における当社の盛興ぶりを伝えるが,当時の社領については未詳である。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7174518