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立町
【たてまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治6年から1~2丁目,大正4年からは1~4丁目がある。江戸期は米子城下十八町の1町。竪町とも書く。城下町の北西部,旧加茂川(外濠)下流の北岸に位置する。東西に走る本通りの西はずれにあたり,東西に伸びる町人地。東は岩倉町,西は灘町に隣接する。北側は寺町が隣接するがその後さらに北方に町家が発達したので,中間に他町が介在する特異な形の町として形成された。文化元年の下札では生高76石余,物成米46石余。幕末期の惣間数は206間,安政6年の調査では217間,ほかに抜小路41間半・本教寺小路40間・中ノ棚曲り22間,市政所御備銀192匁。元禄8年の竈数は家持66軒・借家60軒。明治2年には表竈121軒・裏竈116軒,人高781人(米子市史)。明治初年の戸数・人口は,1丁目が133・396,2丁目が157・532(県戸口帳)。元禄8年の竈数は米子の総竈数2,215軒の約5.7%を占め,18町のうち灘町・岩倉町・内町に次いで大きな規模であった。当町も含めていずれも米子港に近かったため最も繁盛していたからであろう。町禄(町の専売権)として木綿と傘が与えられ,藩の役所である御銀札場と御国産所が町内に設けられていた。また蔵米を取扱った商人の米吾がいた。当町に居住していた米子の豪商には村川家と鹿島家がある。村川家は元和年間市兵衛が米子の海運業者大谷家(大屋)の甚吉に誘われ,竹島への渡海権を幕府からもらい,元和3年から元禄9年まで約80年間両家で交互に渡島して巨富を得た。元禄9年渡海が禁止されてその利権を失った後も,家老荒尾氏から米子へ移入された塩問屋口銭が与えられ,大商人として成長していった。もう一方の鹿島家は,藩主の池田氏の国替えに伴って岡山から当町へ移住,醤油業・質屋などを営んで儲け,4代目治郎左衛門になるとすべての事業を分家と協同して行うようになり,米屋や質屋を営んだり,三柳・夜見・富益などの村々で新田開発を行って資財を増やした。文化5年に荒尾氏が冥加金を課した時は,村川・大谷・後藤・三好・末次・木山らと肩を並べ,実力者の仲間入りをした。幕末には,荒尾氏治下の米子の財政権を一手に引き受けさせられ,その調達額は弘化年間から安政年間までの間に2万6,000両にも及び,とうとう没落してしまった。この鹿島家の資金によって米子に木綿座が出来たのは嘉永3年で,その取扱所を当町の銀札場内に置き,商人から木綿を集荷して大坂へ送ったという。神社は鴨御祖神社(糺社)が城下で唯一の砂山(糺山)の高砂と呼ばれた地に鎮座する。往古は博労町裏にあったが,元禄年間と宝暦年間の2回にわたって類焼,宝暦7年当地に遷座した(伯耆志)。創立年代は不詳だが,山城国の賀茂御祖神社を勧請し祭祀したものという。歴代城主の祈願所として社領を寄進され,社領は元和4年には4石7升2合7勺。社地は東西31間・南北31間(伯耆志)。明治6年立町1丁目と2丁目に分けられた。明治21年には,立町1丁目が農業6戸・商業43戸・雑業64戸・漁業3戸の計116戸,地方税41円余・町費86円余を納め,立町2丁目が農業16戸・商業76戸・雑業90戸・漁業1戸の計183戸,地方税97円余・町費92円余を納める(米子市史)。同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属。明治になってから交易が自由になり,米子港の利用がますます盛んになると,当町も繁栄をきわめ,第三銀行米子支店(のちの安田銀行)が当町に設けられたこともあったが,明治35年米子駅の開設とともににぎわいは駅に近い道笑町・法勝寺町・紺屋町に移り,当町や灘町は次第にさびれていった。大正4年3・4丁目が起立。この地域は江戸期横町と呼ばれた所で,外浜街道の出入口に当たるところから,通称「出口」と呼ばれている。そのためこの地域の商人は,弓ケ浜部の人々を相手に商売をしてきた。明治35年に後藤駅が設置され,同38年これと米子港を結ぶ道路が3丁目の真中を横断して完成すると,この道に沿って新しく3丁目の町家が増加,さらに大正14年に市内電車がこの道を通るようになると一層繁盛した。しかし第2次大戦後米子港の役割の低下に伴い,市の繁盛から取り残された。大正14年5月3丁目の湯屋から出火,3・4丁目で全半焼37戸の大火となった。昭和26年義方小学校が角盤町2丁目から当町4丁目へ移転。4丁目の一部が,昭和10年錦町3丁目,同52年三旗町となる。世帯数・人口は,大正12年487・2,185,昭和30年697・2,805,同50年705・2,104。




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「角川日本地名大辞典」
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