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灘町
【なだまち】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治6年から1~2丁目,昭和10年からは1~3丁目がある。江戸期は米子城下十八町の1町。城下町の西端,旧加茂川(外濠)河口の北岸に位置する。東西に走る本通りの西はずれにあたる町人地で,東は立町と隣接し,南は旧加茂川を挾んで内町に面する。文化元年の下札では生高47石余,物成米28石余。幕末期の惣間数は275間,安政6年の調査では明治期の1丁目にあたる地域が141間,2丁目にあたる地域が134間半,ほかに突抜小路36間半・吉祥院前より表まで43間半,市政所御備銀270匁。元禄8年の竈数は家持143軒・借家109軒。明治2年には表竈168軒,裏竈89軒,新田68軒,人高1,293人(米子市史)。明治初年には1丁目の戸数115・人口387,2丁目の戸数179・人口613,灘町新田の戸数98・人口494(県戸口帳)。元禄8年竈数は米子町の全竈数2,215軒の約11%を占め,米子十八町のうちで最も大きな町であった。米子港に面するので,江戸期は米子の表玄関であった。海産物・魚屋・船問屋・綿問屋などの町禄(町の専売権)が与えられ,また元禄年間には魚座が設けられたため,魚屋や問屋の倉庫などが軒を連ね,また宿屋もあって繁栄をきわめた。当町の主な商人として大谷家(大屋)・坂江屋・野浪屋・嶋屋・中村屋・灘町後藤家・鹿島家・松岡家などの名が記録されている。大谷家の先祖として有名なのは大谷甚吉で,甚吉は北国通の海運業を営んでいたが,元和3年難船して竹島に漂着し,同島が海産物の宝庫であることを知り,帰国後友人の村川市兵衛と共同で竹島渡海の免許を得,その後村川家と交互に渡海した。甚吉はのち竹島で病死したが,その後も大谷家は元禄9年禁止されるまで79年間村川家とともに渡海し,巨富を得た。禁止後も米子城下に出荷する魚鳥問屋の口銭を徴収する利権を与えられ,江戸中期以後も米子の有力町人として明治に及んだ。江戸期は米子城下への商品の出入りがほとんど港を経由したので,この港の管理として当町と深浦へ番所が設けられ,船目代を任命し,構内船持水主の監督,乗船旅人の調査,舟運上の上納,船改めなどの取締役とした(県史4)。米子町への出入の船頭・水主の宿屋は,早くから灘町と片原町のみと指定されていたが,当町の宿屋では出入の船頭などを相手として営業し,彼らの歓心を買うため飯盛女を置くことを願い出,「渡世人のみを相手とする,他国出生の婦人を使う,人数を限る」などの制限つきで許可されている(御国日記/県史4)。寺院には真言宗山城仁和寺末寺の海竜山極楽寺吉祥院がある。本尊は聖観音で,当地方の観音信仰の1つの中心で,会見(あいみ)郡三十三番札所の1番でもある。また荒尾氏の祈願所で,毎年18俵を賜っていた。明治6年大区小区制の実施の際に灘町1丁目と2丁目に分けられた。同16年灘町新田は旗ケ崎村と改称して分村した。同21年の灘町1丁目の戸数は農業6戸・商業47戸・雑業38戸・漁業3戸の計94戸,地方税82円余・町費173円余を納め,灘町2丁目の戸数は農業14戸・商業53戸・雑業60戸・漁業13戸の計140戸,地方税78円余・町費166円余を納める(米子市史)。同22年米子町,昭和2年からは米子市に所属。明治になっても,国鉄山陰線が開通するまでは海運が全盛で,当町あたりが依然米子の玄関口で,昔ながらの海産物屋・呉服屋・米屋などが多く,明治26年には米綿取引所が設置されたほどである。魚市場も,江戸期からの歴史をもつ米子魚商と明治33年設立の米子水産の経営する両市場が併立していた。しかしこれも大正10年には両者合併し,山陰水産となり市場も1つになった。町の繁盛とともに,料亭・貸座敷・置屋なども増え,明月楼・月波楼・梅田楼などの料亭は有名であったが,大正元年新地と呼ばれる郊外に新遊郭地を造成し,婦娼妓などはそこに集めた。これが花園町(昭和10年起立)の起こりである。昭和3年の「米子案内」によれば灘町2丁目には,置屋・貸座敷が合わせて36軒あったという。しかし明治35年山陰線の米子駅開設とともに,町の繁盛は駅前に移った。大正6年当時の宅地価格を比較してみても,立町や当町が坪5円内外であるのに,道笑町・法勝寺町は坪40円内外の高相場になっている。大正12年の世帯数・人口は,460・2,056(1丁目122・575,2丁目338・1,481)。昭和10年2丁目の一部が灘町3丁目・花園町となる。第2次大戦後魚市場を米子港岸壁に新設移転したが,これも手狭になり,同53年旗ケ崎埋立地の現在地に移転した。世帯数・人口は,昭和11年538・2,143,同30年679・3,512。




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「角川日本地名大辞典」
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