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西町
【にしちょう】


旧国名:伯耆

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は米子城の武家地の1つ。江戸中期の絵図伯州米子之図に町名が見える。内濠と外濠(旧加茂川)に挾まれた武家屋敷地の西部に位置する。内濠には突堤(船溜り)があり,濠沿いに馬場があった。鳥取藩士の屋敷が多かった東町と比べ,当町には村河・村瀬・日置・小原・伊丹など荒尾氏の家臣団の屋敷が多くあった。明治3年の米子町絵図には総学局や兵制司などが見え,明治初年には米子の中心業務地区を構成。同10年米子区裁判所が開設。明治初年の戸数45・人口132(県戸口帳)。明治21年の戸数は農業8戸・商業4戸・雑業48戸の計60戸,地方税6円余・町費110円余・申合わせ費4円余(米子市史)。同26年県立病院米子支院創立。同38年良善幼稚園が開園,県最古でキリスト教系の幼稚園だった。同39年には中海臨海地域の湿地を埋立て錦公園が整備され,ついで鳳翔閣・公会堂が完成。同43年には記念道路が完成した。大正元年には公園前に郡立物産陳列所が開設され,この建物は昭和15年から山陰歴史館,同17~26年まで市立図書館にも使用された。大正4年堀端町・五十人町の各一部を合併。第2次大戦中強制疎開戸数は居宅27・その他8戸。昭和20年米子医専創設(鳥取大学医学部の前身)。戦後もしばらくは天神町との間に広く水田を残した。同47~48年に都市計画公園事業として,公園拡張が行われ,錦公園沖が埋め立てられた。その結果13万3,000m(^2)の用地が新たに湊山公園として完成し,面目を一新,一部は鳥取大学医学部附属医療技術短大に分譲された。世帯数・人口は,大正12年138・609,昭和30年169・1,064,同40年151・776,同50年120・535。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7176356