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湯村
【ゆむら】


旧国名:因幡

(近世)江戸期~明治7年の村名。因幡(いなば)国岩井郡のうち。湯村宿ともいう。蒲生川中流左岸に位置する。地名の由来は,温泉が湧き出たことからと伝えられる。鳥取藩領。村高は,拝領高921石余,「元禄郷村帳」921石余,「天保郷帳」910石余(うち新田高145石余),「元治郷村帳」943石余,「旧高旧領」967石余。元禄の本免は4.8,「元治郷村帳」の物成は389石余。戸数は,「因幡志」158,文政5年124,安政5年109,「文久3年組合帳」104。寛永9年制札場,慶安4年宿場となり,享保4年には店舗を構えての商売が許可され,宝暦10年には目安箱が置かれた。延享4年藩主池田光仲によって御茶屋・湯小屋がたてられた。御茶屋とは,藩主の宿泊または昼食休憩にあてる宿のことである。藩主の入湯は,光仲が延享4年,3代吉泰が宝永元年~3年および同5年・7年と正徳2年,5代重寛が宝暦7年・12年,12代慶徳が慶応元年・明治元年に行っていたことが判明している(岩美町誌)。入湯日記下帳が残り,吉泰の場合長い時には40日近くも滞在し,その間には近郷へ遊覧に出かけており,各家老より生鯛・鶏卵・粕漬鯛・味噌鯛などがそれぞれ送り届けられている。湯は一の湯。二の湯・小女郎湯・新湯・入込湯・下入込湯・下女湯と分かれ,それぞれ家臣の名札をかけていたため入湯中は村人は湯に入ることが出来なかった。藩主のための料理については,湯庄屋より指名された。また80歳以上の者,親孝行の者,農業出精の者には褒美を与えられている。藩主の入湯は,一の湯であったが,御茶屋より湯小屋に至る間には幕を張りめぐらして通行止めにしたという(山本家文書)。御茶屋が焼失していた安政5年10月には,藩主慶徳が城内で入湯するため,御小人15人が1組となって,下奉行付き添いで湯樋にそれぞれ錠をおろして朝夕2回くみにきた。湯は一の湯をくみ,封印をして帰り,4日間続いたという(同前)。湯小屋は全部藩の所有であり,新築ならびに修繕方の請願書が湯庄屋から提出された。享保7年4月・天明8年2月・文化14年6月・天保9年4月と火事が4回発生し,いずれも御茶屋・湯小屋を焼いており(岩美町誌),藩でも寛政5年10月に御茶屋火消人夫35人(相山村2人・長谷村8人・真名村2人・宇治村5人・恩志村9人・高山村9人)を定めている(県史10)。なお藩主の当村への遠馬は,6代治道の寛政8年9月,8代斉稷の文化5年8月と同11年8月,9代斉訓の天保3年5月と同9年5月,12代慶徳の慶応元年8月の6回。幕府巡見使の宿泊は宝暦11年3月・寛政元年3月・天保9年4月の3回が記録されている(因府年表)。慶応4年2月の山陰道鎮撫使の一行360人は湯端の家をはじめ農家に至るまで宿舎とした。なかでも薩州隊は仲間喧嘩をし,宿舎を傷つけたという(山本家文書)。宿場として役馬12匹(因幡志),旅籠数は,宝暦7年12軒・明和7年9軒・天明8年16軒・文化14年12軒・慶応4年9軒(岩美町誌)。天保7年の飢饉では葛根・アマハダやドクダミの根,ドングリなどを食べ,醤油も海水を使い,往来には乞食・餓死者があふれ,救済のため粥の炊出しが行われた。年貢皆済のものは1人もなかった。寛文7年宮崎且久は水車を利用して米をついた(稲葉民談記)。「因幡志」に産物としてコマ・籠細工・焼米があげられている。天保14年から鳥取より当村への持出し商いが許可され(鳥取藩法集),嘉永5年には豊八郎が砥石・硯用の石の切り出しを許可された(県史12)。安政2年の店は,酒造店売1・絞油屋2・醤油造売1・鍋屋1・酒請売屋1・麦藁細工屋2・薬種屋1・魚屋3・荒物小間物太物類商1・荒物草鞋草履商1・飴うどん魚商1・絞油ろうそく荒物商1・豆腐や木の実類商1・焼餅や木の実類商1の計18軒(県史8)。文久3年番所詰として番士17名・下番4名を置き,うち2名ずつ牧谷村番所へ通った。これら番士の扶持米124石を,長谷村に24石,湯村に32石8斗,宇治村に21石2斗,高山村に43石6斗,広岡村に2石4斗割りあてて当村御蔵に納めるよう達している(岩美町誌)。文政4年平井洗心が成教舎を建て,石門心学を教授した(岩美郡史)。氏神伊勢宮の祭日は1月21日・9月9日,寺は天台宗医王山東源寺・浄土宗瑞泉山教念寺・浄土真宗西法寺(因幡志)。明治4年鳥取県に所属。同5年郵便取扱所が設置され,当初月6回手紙・小荷物が徒歩人夫によって送り出され,遠方の場合は継送りの方法がとられた(岩美町誌)。同7年岩井宿と改称。




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「角川日本地名大辞典」
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