大倉
【おおくら】

旧国名:備中
吉備高原南斜面,大倉川流域に位置する。字五万原は展望のよい景勝地で,住居跡群などの弥生後期遺跡がある。伝説によれば,南北朝争乱を避けて京都嵯峨の大倉卿が縁故ある隅良庵を頼って当地に身を寄せたが,卿の子息が明剣宮の宮座争いを起こし,嫡男良助が大倉明剣宮を支配したため,東水砂・西水砂の両宮が分離成立したという。長和5年に後一条天皇の大嘗会が行われ,備中国下道郡が主基をつとめたが,そのときの大嘗会悠紀主基詠歌が残っている(大嘗会悠紀主基詠歌)。作者は内蔵頭善滋為政で,その歌には備中国内の地名が詠み込まれている。なかに「大倉山」と題する神楽歌があり,「みつのおもにおほくら山の榊葉は年をつみてそさかゆへらな」と歌われている。この「大倉山」は当地の山と考えられる。
【大蔵村(中世)】 戦国期に見える村名。
【大倉村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【大倉(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7182550 |




