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地毘荘
【じびのしょう】


旧国名:備後

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。備後国恵蘇郡のうち。現在の比婆郡高野町・比和町,それに庄原市域の上原・三日市・市郷・市・田原・本郷・殿垣内・川北・門田(もんで)・濁川・掛田・七塚各町が荘域に相当する。承久3年7月26日の関東下知状が初見。永享12年8月7日の山内時通注進状案によれば,荘内に本郷・上原・下原・河北・伊与西・伊与東・多賀の7郷があった(山内首藤家文書)。本家は京都蓮華王院で,領家・預所は各郷・時代で変遷があり,本郷では蓮華王院・安井宮(山城蓮華光院)・栂尾高山寺北坊・嵯峨千光院が知られており,河北では栂尾高山寺北坊その他で,伊与西では延暦寺石泉院・蓮華王院であった(質入担保となった備後地毘庄/日本歴史438)。地毘荘南部に接して平家没官領信敷(しのう)荘があり,比婆郡東部の九条家領奴可東条内の小奴可には,平氏と関係の深い奴可入道西寂があった(平家物語巻6)こと,当荘の本家蓮華王院は,後白河法皇が平清盛をして建立せしめた寺院であることなどからみて,当荘も平氏と関係が深かったものと推測される。地毘荘の地頭山内首藤氏は,相模国山内荘を本貫地とする源家譜代の家人であったが,経俊が源頼朝挙兵の際,平家方となったため山内荘を没収され,母の摩々局(頼朝の乳母)の力添えで再び家人となった。経俊,その子重俊は,その後の戦功で陸奥・信濃・摂津の国内に地頭職,伊勢国守護職などを得ており,地毘荘の地頭ともなった。平氏没落後の備後北部に勢力発展をめざした山内氏は,延慶元年12月18日の備後地毘荘本郷雑掌道祐地頭山内通資連署和与状によると当荘本郷を地頭請所とした。山内通資が現高野町新市の蔀山城を居城として関東から当荘に移ったのは,正和5年のことという(芸藩通志)が,通資は早くから当荘南部へ移ることをめざしており,本郷の甲山に甲山城を築いて居城とし,蔀山城には弟通俊(のちの多賀山氏)が居住した。荘内諸郷に定住した一族は,地頭職を分与され一分地頭として支配を分担し,多賀山・川北・田原・懸田・滑・竹内・黒杭など地名を姓とするようになった。これら庶子家は次第に分立傾向を強めたので,貞和7年10月2日の山内一族一揆契約連署起請文に見えるように南北朝動乱期には一族一揆を結んで協力を期した。また地毘荘周辺の宮・広沢・長井(田総)などの武士団を武力や婚姻関係で御しながら勢力を伸ばした。殊に応仁・文明の乱では西軍として活躍し,隣接の泉田や備後南部地方へも勢力を拡大,延徳4年9月,山内豊成は守護代,備後国段銭奉行となり,安芸の毛利氏と並ぶ地位にたった。しかし天文22年山内隆通は盟約的関係という名目で,毛利元就に服した(山内首藤家文書)。文禄4年9月21日の平賀元相・市松連署起請文案によれば,根拠地の本郷村789石余は平賀氏の知行となったが(平賀家文書),旧領のほとんどは安堵され,毛利氏一門につぐ高い家格を認められ,備後国内に6,700石余を与えられていた(山内首藤家文書)。山内氏の菩提寺円通寺は甲山中腹にあり,唐様建築の本堂は国重文,甲山城跡は県史跡。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7189178