国衙
【こくが】

旧国名:周防
天神山・多々良山の南部に広がる堆積地に立地する。地名の由来は古代律令期より当地区に周防(すおう)の国衙が設けられたことによる。「和名抄」国郡部に「周防国国府在佐波郡」とある。国衙跡は昭和12年に国史跡に指定され,同36年以来発掘調査が継続されている。ほぼ条里にそって,中世土居八町と言われた地域があり,中央の方2町の地域に国衙政庁があった。八町域南部の市田・馬屋田・大領田という地名により,国府市・駅田・郡家の存在が考えられるが遺構は出ていない。同じく細工所という小字名は国衙工房との関連が考えられ,兵器製造・製塩・生活用鉄器製造も炉の遺構から関連づけられる。平安期に入ると周防国も白河院・後白河院の分国とされたこともあり,院の私領と化した。国衙の行政も目代を中心とする留守所で行われるが,実務は在地の在庁官人によった。周防の在庁官人には多々良氏・日置氏・土師氏・賀陽氏の地方豪族出身者と,中原氏・菅野氏・大江氏の受領国司の在庁官人化した層とがあった。そのうち多々良氏(のちの大内氏)が次第に有力になってきた。国衙域西の字国衙に残る介殿屋敷と呼ばれる地は,周防権介を称した多々良氏(大内氏)の居館があったことによると思われる。文治2年周防国が造東大寺料国となり,俊乗房重源が沙汰するところとなったために,周防では国府の地と国衙領がながく存続することとなった。当域に重源の残したものとして立馬場北詰の辻福寺の丈六大仏がある。西国衙の安楽寺・東昌院・宝林寺も重源の創建と伝える。国衙中央部を南北に走る道路を朱雀大路といい,発掘の結果では,幅約30mあった。正応4年と正和元年と周防国衙が2度放火され,国衙の力も次第に衰退してきた。正和元年以来,大内氏は国衙の目代と対立し,留守所は混乱してきた。延元元年5月,足利尊氏は光明天皇を擁立し北朝をたてた。この時周防国は法勝寺円観上人が国務を沙汰していたが,周防国に在庁していた小目代摂津助公清尊・検非違使助法眼教乗らが対尊氏の兵を募り,矢筈岳山腹の敷山験観寺に立てこもり,安芸の吉河恒明,長門(ながと)の永富季有に攻められ,7月4日戦死している。正平18年大内弘世の時,大内氏は周防・長門の守護大名となり,その子義弘の時には「七州大守」となった。この頃に周防の国衙領は大内氏の一族被官にほとんど押さえられた。応永6年,大内義弘は「国衙領法度五箇条」という事書を出し,守護使不入の国衙領特権は国府域である土居八町に限られた。以後国衙領は中世を通じ土居八町を除いて蚕食された。文明4年の大火で国衙の主要建物は灰燼に帰し,本格的な庁舎は再建されなかった。大内氏滅亡後,弘治4年毛利隆元は土居八町を認め,永禄12年その子輝元も土居八町を東大寺目代に安堵している(周防の国衙など)。
【国衙村(近世)】 江戸期の村名。
【国衙(近代)】 昭和42年~現在の防府【ほうふ】市の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7192825 |




