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壇ノ浦
【だんのうら】


関門海峡の東口,早鞆瀬戸の下関市側の海岸。古くは現在の壇ノ浦から長府沖までの広い範囲の総称であった。壇ノ浦の地名由来については,今川貞世「道ゆきふり」には「此うらを壇のうらといふ事は,皇后のひとの国うちたまひし御時,祈のために壇をたてさせ給ひたりけるより,かく名付けるとかや申なり」とあり,「豊府志略」には「府中二宮の沖潮涸際に二宮の三の華表あり,夫より波夜止毛の明神まで五百壇の石の階あり,故に,今に至る迄壇の浦とは云へり」とある。平安最末期,源平合戦の最後の海戦は壇ノ浦の合戦として著名。「平家物語」「吾妻鏡」などによって古来喧伝されてきた。屋島の戦に敗れた平氏は一旦下関に退き,元暦2年3月24日,源義経を総大将とする源氏を壇ノ浦に迎え撃った。しかし,この海戦でも平氏は敗れ,安徳天皇は入水,大将平宗盛は生捕りとなって平氏は滅亡した。早鞆瀬戸の潮流は速く(平均6.3ノット),この海戦では平氏がはじめ有利であったが,途中から流れの向きがかわり,それが平氏の敗北につながったという。平家滅亡の地として,平家にまつわる伝説も多い。平家滅亡の旧暦3月24日には壇ノ浦の海上を飛ぶ白い鷗の羽が抜けて海面に落ちて死ぬ,壇ノ浦の漁師が海上で平家物語の話をすると舟が後戻りして進まない,海辺で獲れる平家蟹は水死した平家武士の憤魂の代身である,水死した官女がコペケ(小平家)という美しい小鯛に化したなどが伝えられている。また,壇ノ浦の漁師は小舟に正座して釣りをするといわれ,これは平家武士の末孫としての誇りからであるという(下関市史)。海岸に面した小高い所に平家ゆかりの立石稲荷があり,すぐ下の海中にある大きな石に毎年12月上旬,赤間神宮によって注連を奉納する祭事が行われる(下関民俗歳時記)。当地はまた,江戸末期の四国艦隊下関砲撃事件の戦場となったことでも知られている。当時壇ノ浦には3か所計8門の砲座が配置されていたが,現在御裳(みもすそ)川にその砲台旧址がある。明治期以後も軍事上の要塞地として旧日本軍の砲台が背後の火の山に設けられていたが,戦後は開放されて市民公園になった。昭和48年壇ノ浦と対岸の和布刈(福岡県北九州市)との間に,関門橋が開通し,海底部には関門トンネルと新関門トンネルが通じている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7193542