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中之町
【なかのちょう】


旧国名:長門

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領。南は関門海峡に面する商業の町。地名は,阿弥陀寺町と赤間町との中間に位置することに由来する(関の町誌)。亀山八幡宮の北側の地域を神宮司町と呼んでいた。これは当町にあった福生寺(廃寺)が,亀山八幡宮の神宮寺であったことに由来する(寺社由来)。寛保2年の御国廻御行程記に「中ノ丁」と見える。長府藩初期の赤間関七か町の1つ(下関二千年史)。寛政4年の家数191・人数656うち男331・女325(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)。天保9年の人別帳によれば,家数146・人数440(武士・神官・僧侶を除く)で,商家が多い(赤間関人別帳)。同10年入江卯兵衛が寺子屋を開設,文久元年には廃止された(下関市史)。神社には亀山八幡宮があり,赤間関の氏神として民間の信仰が厚く,境内に宮地岳神社・稲荷神社・恵比須神社がある。年中行事の亀山能は市無形民俗文化財に指定されている。下関攘夷戦当時,同社にメリケンライフル3門が配置された(白石家文書)。明治12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す。当町内の小字・小名に神宮司町・船場・サドヤ小路・勝負口があった(県風土誌)。そのほか勝負口一帯を蔵田の庄ともいい,また領地という地名もあったという(関の町誌)。明治19年,当町に初めての勧商場万来館が設けられたが,経営不振のため同27年廃業。建物は,のち寄席に変わった。唐戸湾埋立て前は神宮司町から東南部町への渡し船があった(下関市史)。神宮司町は唐戸湾に面していた関係上,船会社が多かった(馬関土産)。世帯数・人口は,大正14年333・1,506,昭和10年290・1,347(男658・女689)。昭和20年の空襲で町の大半を焼失。同22年下関中之町郵便局開設。昭和29年,一部が唐戸町・赤間町となり,赤間町・阿弥陀寺町・外浜(とばま)町の各一部を編入。同31年外浜町を編入。同39年,一部が唐戸町・阿弥陀寺町となり,赤間町の一部を編入。世帯数・人口は,昭和45年223・693,同55年266・676,同60年254・621。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7193871