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府町
【ふまち】


旧国名:長門

(近世)江戸期の城下名。府中ともいう。長府藩の城下で,中之町・土居之内町・中浜町・南之町・惣社町と外町の印内町の6か町からなる。慶長年間の検地帳や「元禄郷帳」「天保郷帳」では,地籍上は長府村に属していた。天明4年改では,6か町の家数360・人数1,479(男714・女776,ほか町医師),地料銀2貫849匁余,六か町役夫高3,269人,酒造家4,揚酒場6,駅馬15,馬持小頭2,染物師10,鍛冶職12,網持現戸数16(魚免札19),町会所・目代所・町客屋(本陣)・脇本陣が各1,使者宿・往来宿が各5ある(村浦明細書)。慶長7年に長府藩初代藩主毛利秀元が,櫛崎城に入って居城とした。櫛崎城は,元和元年の一国一城令によって解体され,居館が建てられ,初代藩主秀元から15代まで,長府藩の政治の中心となった。天明3年幕府は長府藩の禄高を公称5万石と定め城主格とした(長府毛利家乗)。城下町として発展してくるのは,3代藩主綱元のころからと言われ,江戸中期の絵図によると,御館(櫛崎城)の周辺と忌宮神社を囲む地域に武家屋敷が集中し,壇具川から南の御館付近に重臣の屋敷が並び,旧山陽道の東にあたる海側の街道筋には町屋敷が立ち並んでいる。また,同後期の絵図によると,壇具川下流の海寄りの地域にも武家屋敷が集中するようになり,北は印内を越えて八幡のあたりまで武家屋敷が延び,西の山側も功山寺や覚苑寺の近くまで広がっている。藩では,寛文10年市中御定法,天和3年天和御法度を定めた。また,天保14年には御家中家作之定が出された(長府毛利家乗)。文久3年になると関門海峡で5回にわたって攘夷戦が行われ,海岸に近い居館は危険であるため,居館が覚苑寺に移され,翌元治元年には急遽造営された勝山御殿へ移った。藩校の敬業館と私塾の集童場があり,敬業館は,寛政4年,第10代藩主匡芳が創立を思いたち,藩儒小田亨叔を学長として聖廟を設け,学則を定めて文武兼修の場を開いた。集童場は,元治元年,熊野直介と福田扇馬が,文武教育に重きを置くべく少壮気鋭を集める学舎を作ったもので,乃木希典なども一時学び,のちに藩校となる。このほか,田上正陳と森田治兵衛が,安政元年に寺子屋を作っている。狩野芳崖は,文政11年に印内町で生まれた。乃木希典は嘉永2年に江戸の長府藩邸で生まれ,10歳のとき父とともに長府に帰り,15歳のとき集童場で教育を受け,のち萩の藩校明倫館で学んだ。明治初期,豊浦町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7194405