一宮城
【いちのみやじょう】

中世~江戸初期の山城。徳島市一宮町の城山に所在。築城年代は不明。四国霊場八十八か所第13番札所大日寺の南方500mに位置する。城名の由来は山麓に一宮神社があり,また一宮氏が代々居城したことによる。標高144m,山麓からの比高は120mである。南方の竜王山から北方へ延びた山尾根の北端に位置し,北は鮎喰(あくい)川に面する。城は山尾根の小突起ごとに分散するように構築されている。本丸は東西・南北とも約40mで,天正13年に築かれたと考えられる近世初期の石垣が残っている。また,中央に中世一宮城最後の城主一宮長門守を祀る長門神社がある。本丸の東方100mに標高141mの明神丸があり,さらに東方の空堀兼大手道となっている通路を隔てて財蔵丸がある。この北側には井戸・倉庫跡などがある。本丸の南方の尾根続きには大きな堀切と,さらに南方に小曲輪が連なり,ここから本丸の西方へ突出した尾根上にも水の手丸・小倉丸・椎丸などの曲輪を配し,これらと本丸の間に囲まれた谷の中には,城の水の手と考えられる溜池があり,その下流からは攻め登れぬように滝になっている。本丸をはじめ各曲輪の周りにはいずれも堀切や小曲輪を配し,さらに本丸の北西方約500mの山尾根の先端にまで小曲輪を配するなど,県下でも最大級の山城の偉容を誇っている。また,大日寺の東方約400mにある寄神社は,御土居(おどい)あるいは里城(さとじろ)とも呼ばれ,平時の城主の居館があった所と伝えられている。なお,一説によると,一宮城は南城と北城からなり,現存するものは北城であるという(県史)。同書によると,南城は本丸の東方約900m,標高109mの山上の突起にあるが,現在は狭小な平坦地を残すのみで,顕著な遺構はない。城主についてみると,鎌倉期に守護であった小笠原氏の一族が南北朝期に一宮城を築いたとされ(県史),小笠原氏はその後一宮氏と称し,南朝方として活躍したが,貞治元年に北朝へ降り,細川氏の被官となった。のち一宮城には代々一宮氏が居城し,両細川家の乱などで度々畿内に出兵した阿波の国衆の中に一宮氏の名も見られる。戦国期,阿波国は細川氏に代わり三好氏の支配するところとなるが,このころ一宮城には一宮長門守成祐がいて,三好氏家臣団の中でも有力武将であった。のち細川真之が勝瑞を脱出して仁宇谷に籠ったことから,成祐は天正5年に細川方となり,三好氏と争うようになり,土佐の長宗我部元親にも通じた。同年,一宮氏は三好方のため城を追われて焼山寺(名西(みようざい)郡神山町)へ逃れたこともあったが,天正8年再び一宮城に帰った。天正10年三好山城守笑岩が織田信長の先兵として阿波に帰ると一宮城は再び三好方に奪回された。同年,本能寺の変が起こり,織田信長が討死すると,長宗我部元親は大軍をもって阿波に侵攻し,中富川の合戦で三好方を破り,間もなく阿波を平定した。一宮長門守成祐は,終始元親に協力したが,元親はこれを謀殺し,当城には元親の臣江村親俊,谷忠澄を置いて守らせた。天正13年,豊臣秀吉の四国征討に際し,一宮城は非常によく守ったが,白地の本陣にいた元親が秀吉に降伏するに及び開城した。同年秀吉から阿波に封ぜられた蜂須賀家政が,最初この城に入った際,城は大改修された。しかし,家政は翌14年徳島城に移り,その後,城は阿波国内の要衝9か所に配置された支城(阿波九城)の1つとして取り立てられ,家臣益田宮内少輔を城番とし,兵300を付けて守らせた(阿淡年表秘録)。のち一国一城令により寛永15年廃城となる。昭和29年8月城跡は県史跡となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7195190 |




