白地
【はくち】

旧国名:阿波
横谷を形成し北流してきた吉野川が流れを東に変える直前の左岸,支流馬路川との合流点に位置する。南西に天神山,北西に竜王山がある。地名の由来は,阿波守護の小笠原氏が伯殿と呼ばれており,同氏居館があったため伯地としたとする説,帆かけ船の白帆にちなむとする説や川舟の止まる泊地を語源とするなどの3説がある(文化財を通してみる池田のあゆみ)。地内中央の白地台には田井荘の荘官近藤氏(後の大西氏)が拠ったという白地城館跡が残る。大西氏の建立したといわれる報恩廃寺の跡から出土した瓦には「文明癸(庚カ)巳歳十一月吉日,報恩寺上葺,大檀那 藤原之(元カ)高」と記されている(池田町史)。この藤原之(元カ)高は大西之(元カ)高のことで,大西氏は三好氏と関係を持ちつつ国人領主として発展をみせ,頼武・覚用の代には,白地城を中心に三好地方最大の領主となるが,長宗我部元親の阿波侵攻により,白地城は攻められ,天正5年に大西氏の惣領家は滅亡した(三好家成立之事/群書21)。寛永8年成立の「元親記」には「大西之内羽久地と云所に,新城をして谷忠兵衛に預けらる」とあり(群書23上),元親は当地に新城を構えさせ,谷忠兵衛を入れた。なお,江戸期の白地村の枝村野路内村については応長元年後6月3日の高階恒基奉書に「阿波国田井庄野路内荒野事,四至堺任先規,右荒野者,雲辺寺別当権律師仕申請之旨(間カ),永代禁断殺生所寄進当伽藍也」と見える(雲辺寺文書/三好郡誌)。同文書は田井荘の荘園領主の西園寺家が発給したものと思われ,雲辺寺の別当権律師の申請で,当地内の荒野を雲辺寺の伽藍に付したものである。
【白地村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【白地(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7196985 |




