丸ウ浜
【まるうはま】

綾歌郡宇多津町の青ノ山の北側海岸に所在した塩田。宇多津海岸の地先は,幕末から明治期に開発され,角ウ浜・丸ウ浜・沖桝浜が築造され,東は大束川河口と北浦漁港,西は土器川河口の土器浜・安達浜の東に至る,広大な塩田地帯を構成した。その中心をなすのが丸ウ浜で,その南側を陸桝浜,北側を仲桝浜と称し,その北側に沖桝浜が位置した。丸ウ浜(陸桝浜・仲桝浜)は,明治4年3月,廃藩直前の高松藩の事業として,約150haに及ぶ陸桝・仲桝・沖桝の3区画の築造工事の一環として始まり,半年後の9月には堤防の完成にまで達したが,廃藩置県のため,高松藩としての工事を中止し,以後の工事を民間に任せた。地元の横田次郎七・宮井清八郎・三木五郎・福崎説次の4名による共同事業として継続し,まず,陸桝浜の6軒前を,翌5年から同6年にかけて完成したが,共同経営の遂行に円滑さを欠き,同14年3月,負債を抱えて破産した。塩田は公売されたが,紛争が続いて,正式の所有者の確定が遅れ,同17年に至って揚行蔵の所有となり,同19年12月に陸桝浜(22軒前)全部の築造が完工した。仲桝浜全部の完成は,同24年5月で,着工以来,21年を要した。その後,経営は宇多津塩田株式会社(明治23年創立),宇多津製塩株式会社の手で行われたが,丸ウ浜の名は,宇多津塩田株式会社の屋号によるという。当時の規模は78.5ha。昭和11年12月1日,隣接の沖桝浜・角ウ浜とともに,それぞれの小作人が共同して,浜方共同購入所を設立し,翌12年2月1日,宇多津塩業小作人組合に改組した。同14年2月23日,地主と小作人による宇多津製塩工業組合(出資金41万円,組合員141名)が設立され,真空式製塩工場建設準備の計画を立てたが,第2次大戦時下のため実施を延期,小作人に鹹水製造許可が与えられた。法令改正に伴い,同18年10月宇多津塩業組合となるが,同21年6月には,地主が脱退し,地主の持分を小作人が譲り受けた。同22年2月,丸亀塩業組合を合併し,扶桑塩業組合を設立。翌23年6月,真空式製塩工場を完成し,同29~32年には流下式へ転換工事を完了した。同40年12月,宇多津塩田株式会社(宇多津東塩田・土器塩田の2社を合併吸収)から,一切の塩田土地を譲り受けたが,同47年3月,第4次塩業整備により,扶桑塩業組合解散,塩田を廃止した。廃止時の面積78.8ha。塩田跡地転用面積は,角ウ浜・沖桝浜を加え,186.3ha。周辺用地も含め,香川中央都市計画事業・宇多津塩田土地区画整理事業として現在までに,公共用地61.1ha・住宅用地66.5ha・工業用地45.4ha分が転用された。瀬戸大橋(本州四国連絡橋児玉坂出ルート)完成に伴う鉄道新線(国鉄備讃本線)の四国側ターミナルとなる新宇多津駅の建設用地としても利用される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7199791 |