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三浦
【みうら】


旧国名:讃岐

(近世)江戸期の町名。丸亀城下西平山・北平山・御供所(ごぶしよ)3か町の総称。丸亀平野の北部,土器川河口部左岸に位置し,瀬戸内海に面する。丸亀城の北にあたる。東西に細長い浦で,東端の東汐入川河口から西へ御供所・北平山・西平山の3町で構成され,西端は西汐入川に面した。「寛永17年生駒氏惣高覚帳」に三浦として172石余,「寛文4年高辻帳」では三浦町と見え今高72石余。「西讃府志」では,御供所が東西2町22間,北平山が同1町66間,西平山が同2町35間余となっている。生駒氏による築城にともない,慶長6年,当時鵜足(うた)郡土居村に属した当地に水夫として宇多津御供所および平山の浦人を移住させて,御供所・北平山・西平山の3町(三浦)が成立(三浦漁夫旧記)。三浦の地名は旧地時代からの呼称と伝えられている(西讃府志)。文禄の役に三浦加子280人が塩飽(しわく)島650人とともに出動,加子役勤めの褒賞として鵜足郡土器村に畑175石,城下近辺に122石諸役免許の御墨付を得たが,該当地を実際に得られないまま寛永17年生駒氏は改易,土器村は高松藩領となった。同19年山崎氏入封時に代替地を請求,畑地8町6反4畝が三浦庄屋および加子280軒へ免許された(三浦漁夫旧記)。280軒(御供所85・北平山76・西平山119)には年5,040人分(御供所1,530・北平山1,368・西平山2,142)の加子役が課せられ,未進の場合には1人に付5分ずつの加子役銀を負った。ほかに生駒氏時代には干鯛1,000枚・馬鮫子150腹を献じたが,漁家の減少により山崎氏時代から代銀400目を納めた。三浦は丸亀城下17町の3町として把握され,城下の大年寄支配下に入ったが,ほかの14町と区別され,触などにはしばしば「町三浦」という記載が見える(古法便覧)。大年寄の下に町年寄の置かれた他町と異なり,庄屋が町政を担当した。加子役負担のため,城下各町に課せられた棒役などは免除された。生駒氏時代には多くが漁業に従事,広い漁場をもったが,讃岐国が分藩されるに及び漁場を狭められたこともあって,御供所を除いて次第に漁業から離れていった。承応3年大坂町奉行の裁定が下った塩飽島とのわたり・かませ漁場をめぐる紛争などしばしば漁場論争が起こっている。西平山・北平山は早く商業地化し,御供所も東西を貫く通りの南側に商家が増加した。元禄3年の戸数365(古法便覧)。「西讃府志」では,戸数837・人口3,111(男1,559・女1,552)。江戸後期,金毘羅参詣の隆盛にともない,金毘羅船入港地にあった西平山町を中心に繁栄した。天保4年には金毘羅船の増加にこたえるため藩により西平山北手海岸に新堀湛甫が築かれた。商業化が進むにつれ,御供所・北平山・西平山がおのおの独立の町として把握されて三浦の地名は次第に消滅していったと考えられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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