宮田村
【みやたむら】

旧国名:讃岐
(近世)江戸期~明治7年の村名。那珂郡西七箇村(寛永18年までは七箇村西分)のうち。真野郷に属す。西の竜王山と東の130~150mの丘陵に挟まれた谷地に位置し,地内を宮田川が流れる。地名の由来は神社の社領の意味によるものかと思われる。戦国期には丸山城に拠った飯尾太郎兵衛の勢力下にあったと伝え(仲多度郡史),標高196mの丸山の頂上を中心に連郭式の山城跡がある。江戸期にははじめ生駒氏領,寛永18年丸亀藩(山崎氏)領,万治元年丸亀藩(京極氏)領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」では七ケ村西分(西七箇村)として1,315石余に含まれ,「寛文4年高辻帳」の朱印高151石余・今高191石余,「延享年間高辻帳」151石余(ほかに新田16石余),「天保郷帳」249石余,「西讃府志」170石余,「旧高旧領」150石余。「西讃府志」によれば,村の広さは東西10町30間・南北12町30間,丸亀から3里20町,隣村は東に生間,西に佐文,南に追上,北に買田,耕地(反別)は25町余(うち畑1町余・屋敷8畝余),貢租は米90石余・大麦1石余・小麦9斗余・大豆1石余,戸数48・人口231(男117・女114),牛37・馬9,神祠は国王大明神・荒神祠5・木析祠,仏寺は法然堂・地蔵堂,居林9町余,池は久米池・皿池・戸越池,橋2,圯2,堰10,川2。金毘羅大権現の門前町から3kmという距離にあるため,地形を利用して桃・梅を栽培した。西七箇村預り庄屋の支配を受け,組頭が任命されていた(奈良家文書)。明治4年丸亀県,同年香川県,同6年名東(みようとう)県に所属。明治5年西光寺に,買田・生間両村と合同して撮英学校を設立。「新撰讃岐国風土記」によれば,郷の北西に位置し,反別は田35町余・畑2町余・山林175町余・原野7反余・宅地2町余,戸数63・人口326(男162・女164),山は桜谷山・河内山・中生間山・北山・堂谷山,川2。同7年十郷(そごう)村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7199897 |