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松山藩
【まつやまはん】


旧国名:伊予

(近世)江戸期の藩名。居城は温泉郡松山城(金亀城)。親藩(家門)・大藩。15万石。慶長7年に,伊予正木(松前(まさき))10万石の城主加藤嘉明が,関ケ原の戦の功によって20万石に加増されたので,温泉郡味酒(みさけ)郷に新城郭・城下町の建設を企図,翌年この地に移って近世城下町が成立。松山の地名もこの時ついた。その後26年にわたる努力によって,松山は伊予国の中枢都市に成長。寛永4年に嘉明は会津(福島県)に転封となり,そのあとへ出羽国上ノ山(山形県)城主蒲生忠知が20万石で入国。二ノ丸邸が完成した。蒲生氏時代は相つぐ凶作によって蒲生騒動・片平騒動とよばれる農民一揆が起こり,7年後,忠知は嗣子のないまま病没し,蒲生家は断絶した。同12年に伊勢桑名城主松平定行が15万石の松山城主となって以後,定頼,定長,定直,定英,定喬(さだたか),定功,定静,定国,定則,定通,勝善,勝成,定昭,勝成(再)と15代,237年続き,明治維新となる。定行は天守閣の改造に着手し,3か年にわたる工事の結果,従来の5層の天守が3層となった。また山間部の久万(くま)山地域に茶の栽培を奨励し,道後温泉の浴槽・上屋を整備して,藩政創業期にふさわしい事績を残した。この時の藩の領域は,温泉郡35か村2万1,815石余,風早郡78か村1万6,152石余,久米郡31か村1万5,790石余,桑村郡26か村1万3,025石余,野間郡29か村1万4,915石余,浮穴(うけな)郡のうち43か村2万2,120石余,伊予郡のうち19か村1万3,571石余,周敷(すふ)郡のうち24か村1万1,030石余,越智郡のうち23か村8,132石余であった(寛文印知集)。4代定直の治世は元禄期にあたり,彼の好学によって儒学・俳諧が郷土に伝播し,松山文化の勃興期を迎えた。その反面旱魃・洪水等による不作により藩財政に行き詰りが見られたので,高内又七を総奉行とし農政の改革を断行させた。又七は従来の検見取を定免制に切り替えて経費の節減をはかるとともに,地坪(割地)制度を実施して農民の負担の均衡化をはかった。この政策は成功し,定免制が長く持続する基盤をつくった。享保17年,松山地区の天候は不順で,5月下旬~7月上旬まで雨が続き,稲作は枯死して収穫は皆無となり,享保の大飢饉が起こった。さらに農民の生活を窮地に陥れたのは,ウンカの発生による被害であった。農産物の欠乏は穀物の価額を騰貴させ,米価が前年の10倍余に暴騰した。藩庁では藩士に人数扶持を実施するとともに,罹災者に対する賑救品の頒与,払下げ米等による庶民の救済に全力を尽くした。同年末には3,489人の餓死者を算したが,これを南海道のそれの5,818人に比較すると,災害のいかに激甚であったかが知られる。そのなかから種麦を守って餓死した義民作兵衛が出現した。翌18年定喬が藩主になると,家老をはじめ要職の更迭を断行した。これには享保大飢饉に対する藩主補佐役の責任問題がからんでいると思われる。この政変から7年を経て,寛保元年に久万山地区14か村,約3,000人の農民が隣接の大洲藩に逃散した(久万山騒動)。この騒動の原因は,大飢饉以後における貢租の過重,特産品の茶の価額の暴落,製紙供出の苛酷さにあった。この一揆は久万大宝寺の住職の斡旋によって解決したが,ほぼ農民側の勝利となった。その結果,家老らは農民側との交渉の不始末を責められて配流の処分をうけ,政局は大変動をうけた。その後藩の財政は次第に窮迫し,倹約令の頻発と借上げのかたちをとる減俸の実施によって,ようやく難局を切り抜けなければならなかった。明和3年,幕府から1万石の上知を命ぜられ,やむなく桑村郡10か村(大野・宮之内・河原津・新市・楠・黒本・中村・高田・国安・桑村),越智郡8か村(桜井・旦村・登畑・宮崎・朝倉上・朝倉下・長沢・孫兵衛作村)の計9,946石余を上知した。その分を明和7年に新開地を領内各郡に割り当てて本高に繰り入れた。これを御償新田と称した。その一方で,安永4年には,貯銀米・備荒貯蓄の法を制定し,飢饉に備えた。11代定通は危機を打開するために,藩政の大改革を断行した。彼は厳重な倹約を藩民全般に要求し,家臣の俸禄を引き下げて歳出の節減をはかるとともに,町人・豪農層に御用銀米の上納を強要した。また伊予結城(のちに鍵谷(かぎや)カナにより伊予絣となる)を国産品として,その販路を全国に拡張させた。さらに藩学として明教館を創設し,そのなかに武技の稽古場と朱子学・国学を中心とする学問所を併置して,藩士の気風昂揚につとめた。第2次長州征伐に際し,藩は幕府の指令に従い,慶応2年に兵を周防国屋代島に上陸させ,長州藩と戦闘を交えた。しかし四国諸藩の来援するものもなく,孤軍奮闘の末敗退した。明治元年の鳥羽・伏見の戦では松山藩は旧幕命によって摂津国梅田の警備に当たっていた。そこで松山藩は朝敵の汚名のもとに追討を受け,土佐藩が松山を軍事占領した。ほどなく藩主の恭順の誠意が認められ,藩は維新政府の体制のもとに組み入れられた。明治初年の状況は,草高15万7,184石,正租10万3,480石,戸数5万487戸,うち士族833,卒族3,718,人口21万1,882人,うち士族4,645,卒族9,659(藩制一覧)。明治4年に廃藩置県後,松山県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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