永瀬
【ながせ】

旧国名:土佐
物部川上流左岸に位置する。永瀬山のふもとにわずかな平坦地があり,山上には,山田氏の家臣山本左衛門の城跡がある。天正16年の山田郷ノ内韮生谷地検帳に見える「□ケ村」が永瀬村のことと思われ,20筆が記される。その検地面積は2町7反余うち田1町5反余・山畠屋敷1町余(うち荒15代),すべて永瀬孫七の扣地で,「古城ヤシキ」は5代,「土ゐやしき」は40代で「永セ□ゐ」と記され,7筆の居屋敷に2人の永瀬氏のほか,姓名の記されない16人が居住している。戦国後期には山本氏がいた。山本氏は永瀬山に東西30間・南北20間の城を築き,永瀬を領有して山田氏に仕えたという。天文年間山本左衛門進の時に山田氏は長宗我部氏のため攻め滅ぼされ,山田河内守は永瀬に逃れて来たので左衛門進は河内守をかくまったが,その後猪野氏は長宗我部氏に降ったので,左衛門進独りでは河内守を保護することが困難となり,槙山の専当氏,安芸の安芸氏らにも頼んだが協力が得られず,自ら河内守を伴って阿波の海部郡に逃れた。いくばくもなく河内守は病没し,左衛門進は秘かに当地に帰って蟄居生活を送った。左衛門進の嫡子を孫市という。母が吉野城主野中三郎左衛門の妹である関係で孫市は三郎左衛門に育てられ15歳を迎えた。野中氏は長宗我部氏の近臣で,三郎左衛門は元親の信任が厚く,特に願って孫市は元親に仕えることを許され,永野村・根須村などで3町余の土地を賜ったと伝える。長宗我部氏滅亡後,孫市の子五郎右衛門より孫七郎―太郎左衛門―久右衛門―孫之丞―佐平―四郎兵衛―孫七―孫之丞―栄蔵と代々継いで農を業とした。永瀬集落の山本姓は皆この一族と伝えられている(香北町史)。
【永瀬村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【永瀬(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7207051 |




