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野根山街道
【のねやまかいどう】


土佐東街道のうち,安芸郡奈半利(なはり)(現奈半利町)から野根(現東洋町)に越える山道をいう。江戸期の街道であるが,養老2年以後奈良期の官道であったとの説があり,平安期には廃されたが,一般には野根山越の道は使用されていた。承久の乱で土佐に配流された土御門上皇は野根山山中で雪にあい(承久記),「うき世にはかゝれとてこそ生まれけめことはり知らぬ我涙かな」(増鏡/古典大系)の歌を残したと伝えられている。戦国期に長宗我部元親の軍はこの道を越えて,野根・甲浦(かんのうら)(現東洋町)に進軍し,さらに阿波への進入路ともなった。近世に入り,山内一豊は慶長6年甲浦から野根山越によって浦戸城へ進軍したのであった。それ以後享保3年6代藩主豊隆が北街道を通るまで参勤交代の道として栄えたのである。「土佐幽考」には「自奈半利至野根甲浦,通阿波国那賀郡宍喰村,坂路也,山中行程十里高峻凌雲」「絶頂有岩佐村,御当家始建関置守衛四五人,戸数僅十許」とある。街道の幅はほぼ2mで,一里塚が8か所に築かれ,山上には3か所のお茶屋場があり,岩佐の番所は立川・用居と並んで土佐三関の1つとして重要視されていた。幕末維新の動乱期には,文久3年中岡慎太郎がこの道を通って脱藩し,元治元年には清岡道之助以下二十三士が野根山に屯集して勤王運動の先駆けをしたが阿波で捕らえられた。また佐賀の乱に敗れた江藤新平も明治7年3月野根山に逃れたが甲浦で捕縛された。野根山街道の道筋は,奈半利の北のはずれから東に向かってのびている。奈半利の送番所跡から山道を登ると標高約600mの米ケ岡開拓地に着くが,道の右に一里塚がある。ここから約2kmで栂坂にかかり,標高875mの栂ノ峠を越えて杉並木をくぐると三里塚に着く。8か所の一里塚のうち2つが現存しているが,その1つである。三里塚の東に大きな宿屋杉があり,ここから前に進むと熊笹峠を経て標高1,083mの装束峠に達する。街道一の高所である。藩主休憩のお茶屋場跡があり,峠を越えると妊婦と狼の伝説を残すお産杉があり,まもなく岩佐の番所跡である。岩佐は寛保3年の郷村帳に「岩佐村新田」とあり,地高10石,戸数15・人数76と記されている。道の北側に藩主の御殿跡や番所跡があり,「岩佐旧関所」の碑がたつ。番所から東へ街道はのび,蛇谷道への分岐点を経て標高983mの野根山の下を通り,花折坂から野根へと下っている。廃道となり雑草に覆われていたこの街道も,現在歴史の道として,自然遊歩道として脚光を浴びている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7207489