上妻郡
【かみつまぐん】

旧国名:筑後
古代~近代の郡名。筑後国および福岡県の郡の1つ。筑後国の南部に位置する。「こうづま」ともいう。北は御井・山本・竹野・生葉(いくは)郡,東は豊後国日田郡,南は肥後国,西は山門(やまと)・下妻・三潴(みずま)郡に接する。矢部川・星野川流域に位置する。「日本書紀」持統天皇4年9月23日条に「筑紫国上陽咩郡人大伴部博麻」とあるのが郡名の初見。上陽咩は「かみつやめ」と訓むのであろう。大伴部博麻は斉明天皇7年百済救援の戦いの時唐軍の捕虜となったが,自らを奴隷に売りその資で筑紫君薩夜麻らを帰国させ唐国の計画を知らせた。ようやく30年後に帰国した博麻に天皇は布稲水田などをあたえてその功に報いたという。下妻郡域とともに景行天皇18年7月条に見える八女(やめ)県・八女国・八女津媛の八女の地に当たる。「和名抄」では「加牟豆万」と記し,「かむつま」と訓んでいる。「国郡沿革考」に,上妻・下妻は古くは八女国と称しのち上・下陽咩郡に分けたもので,和銅(8世紀初頭)よりのちに上妻・下妻に改めたと記す。「筑後国風土記」逸文では郡を県と書き,「妻郡 々南二里 有筑紫君磐井之墓墳」と見える。上妻郡と記されるのは平安期に入ってからである。郡名の由来は,八女の由来が八女津媛から来ているのに因んで,加牟豆万は加牟都邪米がつまったものとする説がある(太宰管内志)。筑紫国造磐井の墓と伝える前方後円墳がある。
(古代)「和名抄」の郷は太田・三宅・葛野・桑原の4郷。
(中世)文治2年藤原(上妻)家宗は宇佐弥勒寺領上妻荘内および瀬高下荘内所々の地頭職に任ぜられている。
(近世)天正15年の豊臣秀吉の九州仕置によって当郡は統一政権下に組み入れられ,秀吉は筑後国のうち4郡(山本・上妻・三潴・御井)を小早川秀包に与え,当郡もその所領となった。
(近代)明治11~29年の郡名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7210311 |