基肄城跡
【きいじょうあと】

古代の山城。筑紫野市山口・原田,佐賀県基山町にかけて所在。国特別史跡。天智4年に大野城などとともに百済から亡命した貴族の答春初・憶礼福留らの技術指導のもとに築かれた朝鮮式山城。大宰府から南へ約8kmの基山にあり,北の大野城跡と対峙している。大野城・水城とともに大宰府の羅城を成す。大野城と同じく平面が馬蹄形状の山稜を全長約4.4kmの土塁が巡り,谷部には石塁・石垣(仏谷石垣・水門西方石垣)が設けられ,土塁には3か所の城門(南門・東北門・北帝門)と1か所の水門がある。北帝門付近の土塁は二重に造られ,一部に石垣の痕跡もみられ,大宰府方面に通じる主要門的性格が強い。また,東北門跡には柱座をもつ門礎が一対残っている。谷の南出口にある水門は,長さ26m,高さ8.5mの石塁で,基部に長さ9.5m,内法1×1.4mの通水孔を設けている。発掘調査は基山町教育委員会の主催で昭和51年に建物跡1棟について実施され,礎石総柱3×5間の建物が確認された。土塁内部には建物跡が群在しており,所在が確認されているのは40棟以上にのぼる。建物のほとんどが尾根に造られており,3×10間,3×6間という大規模の礎石総柱建物が確認される。出土遺物は必ずしも多くないが,7世紀後半に比定される単弁軒丸瓦と重弧文軒平瓦があり,単弁軒丸瓦は豊前地方に多く見られ,その関連が興味深い。基山町教育委員会「特別史跡基肄城跡発掘調査報告書」(昭和51年)・田平徳栄「基肄城考」(大宰府古文化論叢 昭和59年)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7210570 |