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久留米城
【くるめじょう】


戦国期~江戸期の平山城。篠山(ささやま)城ともいう。久留米市篠山町に所在。県史跡(昭和58年指定)。城は久留米市の西北部,筑後川沿いの丘陵上に営まれ,筑後川中流に広がる平野を押さえる位置にある。永正年間に在地豪族が城を築き,笹原城と称したことに始まるという。一時廃城となったが,天文年間に再興され,天正初期には高良山座主良寛の弟麟圭が居城し,豊後大友氏と肥前竜造寺氏との間でこの城をめぐって激しい争奪戦が繰り返された。この時期の城郭は,砦程度の規模であったと思われる。本格的な城郭として整備されるのは,豊臣秀吉の九州出兵後,天正15年に毛利元就の子毛利(小早川)秀包が,筑後4郡7万5,000石(のち13万石)を与えられ入城してからである。慶長5年,関ケ原の戦に際し,秀包は西軍に属して除封された。戦後,東軍に与した田中吉政が筑後一国32万5,000石を領し,翌6年,柳川城に入城すると,久留米城には吉政の次子主膳吉信が在城したという。田中氏は,2代忠政が元和6年に嗣子なくして没し無嗣除封となった。代わって丹波福知山城主有馬豊氏が筑後8郡21万石を領して翌7年に入城し,12代頼咸の時,明治4年に廃藩置県を迎え,政府の廃城方針に従い,明治7年に城内構築物の大部分が破却された。城郭は,毛利時代に旧城の南西部に蜜柑丸と称する新城を加え,城下町も形成されはじめ,田中時代には堀を深くし,石塁・築地・櫓・門などを新たに構築したと伝える。有馬時代には,城の縄張りはさらに拡大され,元和の一国一城令によって破却された領内の中世城郭の用材を用い,大手門を南に移して南面の奥深い城構えに変え,三の丸に続いて広大な外郭(侍屋敷)を造り,その周りに外堀を巡らした。この時に区域内にあった町屋を外部に移して新たな町割を実施し,寛永8年頃に大体完了したものと思われる。本丸の遺構は,南北200m,東西141.5m,巽櫓の比高16.45m,本丸比高15.53mを測り,構造は,中央に御殿,四隅に隅櫓,その中間に3棟の櫓を設け,これらを2層の長く連なった多門で結んでいた。天守閣は設けなかったが,御三階櫓と称された巽櫓が,実質的に天守閣の内容を有していた。現在本丸跡には,歴代藩主を祀る篠山神社,有馬氏の遺品を所蔵・展示する有馬記念館が建つ。県史跡の指定範囲は,本丸部分が中心。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7210920