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三池炭鉱
【みいけたんこう】


大牟田市,柳川市,三池郡高田町,山門(やまと)郡大和町,熊本県荒尾市およびその地先に広がる有明海底に,数百km(^2)の広大な鉱区を保有するわが国最大の炭鉱。県内に現存する唯一の炭鉱でもあり,現在は三井鉱山の子会社,三井石炭鉱業の経営下にある。年産規模約500万tは全国石炭生産量の約30%に当たる。従業員約5,400人,1人1か月当たり出炭能率約100t,発熱量6,200~7,800kcalの高品位の弱粘結炭は,製鉄・ガス・コークス向けの原料炭と,電力その他向けの一般炭として出荷される。大牟田市の地下から有明海底にゆるやかな傾斜で延びる炭層は第三紀層に属する9層があるが,このうち厚さ2~6mの第2上層,上層・本層の3層を稼行対象としている。炭層が厚い上に,ボタの含有率が低く,しかも2~6°の緩い傾斜であるなど自然条件に恵まれ,商品の品位の高さとあいまって経営条件は群を抜いている。過去100年以上にわたって約2億5,000万t採掘したにもかかわらず,なお10億t以上の石炭資源が埋蔵されている。戦後,海底に坑道が延長されるのに伴って,坑内換気の必要上,初島・三池島などの人工島を築造して,通気竪坑を開削した。また北側の隣接鉱区で昭和33年から日鉄鉱業が開発に着手した有明炭鉱は,同48年以降,三井鉱山に引き継がれ,同52年には三池炭鉱と坑内で連結され,現在は有明鉱として,三川・四山両鉱とともに一体化し,三池炭鉱を構成している。最近,落盤事故の危険の多い採炭切羽を無人化するため,同45年から採用した自走枠を,遠隔操作する試みに成功し,さらに自走枠の中で労働者が運転しているドラムカッターをも遠隔操作する実験を進めている。三池炭鉱の起源は,文明元年,三池郡稲荷山で農夫伝治左衛門がたきびをして,燃える石を発見したのが始まりと伝えられる。その後享保6年,柳川藩士小野春信が平野山で石炭の採掘を始め,寛政初期には三池藩による石炭採掘が行われた。これらは大牟田市東北部の台地にある露頭の周辺部に限られ,生産の本格的な発展は明治以降となる。明治5年「鉱山心得」によって鉱山王有制を宣言した政府は,翌年,長崎県の高島炭鉱とともに三池炭鉱を官営として工部省の支配下に入れ,英人ポッターを雇い入れて洋式採炭を試みた。資本主義的大規模生産の試みは,同8年,稲荷山岩戸坑の開坑に始まり,大浦斜坑・七浦竪坑・勝立竪坑・宮浦竪坑と次々に着工し,生産規模は明治6年の1万3,665tから同22年には45万3,882tへ,33倍に飛躍した。しかし明治初期の近代的労働力基盤が未確立の時代に,多数の炭鉱労働者を確保するには困難があり,官営三池炭鉱では最初から囚人労働に依存した。まず同6年,三潴(みずま)県の囚徒50人の使役に始まり,その効果が大きいので,県の懲役囚150~160人が送られ,同11年には長崎県,同14年には熊本県から囚人を入れ,さらに同16年には三池集治監を作って中国・四国・九州各県の囚人を収容した。このため三池炭鉱が払い下げられた同22年には,鉱夫総数3,103人中69%に当たる2,144人が囚人であった。囚人は官営時代を通じて坑内労働の根幹を担ったので,囚人出炭量が三池の全生産量のほとんどを占め,その中で明治16年,大浦坑内で熊本県囚人が苛酷な取扱いに耐え兼ねて暴動を起こす事件も起きた。囚人労働は三井の経営に移ってからも続けられ,昭和5年に廃止されるまで58年間三池炭鉱の生産を支えた。官営三池炭鉱は,近代的大規模経営の基礎がほぼ確立する明治22年に,455万5,000円で三井組に払い下げられ,三池炭鉱社(後に三井鉱山)の経営となった。三池炭鉱の生産は年々急増。三井物産の手で輸出される量が多かったので,三井鉱山は同35年約400万円で閘門式の三池港の工事にかかり,同42年完工した。また明治末から昭和初期にかけて,三池炭を基礎に化学工業・亜鉛精錬などを含む大牟田石炭化学コンビナートを形成した。このように三池炭鉱は自然条件の有利さから文字どおり三井のドル箱としての役割を果たした。第1次大戦中の大正6年には三井物産への売り渡し価格,t当たり約5円60銭に対し,生産原価は2円80銭と売値の半分が利益となるようなこともあった。このため近代化の努力が遅れ,第2次大戦後は坑道延長が180kmにも及ぶなど,非能率が表面化した。またボタの少ない厚い炭層は,労働者が素手で鶴嘴を用いて採炭することを可能としたから,採炭作業の機械化が大幅に遅れ,エネルギー革命下の炭鉱合理化を一層過酷なものとした。三池炭鉱では再三の合理化に対して激しい反対闘争が行われたが,特に昭和34~35年にわたる三池争議は歴史に残る大争議となった。さらに同38年11月9日には主力の三川坑で大規模な炭塵爆発が起こり,死者458人・重軽傷者584人のほか多数のCO中毒患者を出す戦後最大の惨事となったが,生産第一主義の結果,保安に手抜りがあったのではないかと指摘された。その後,政府の石炭鉱業保護政策によって,親会社の三井鉱山は債務の肩代わりを受け,数々の救済策によってビルド鉱としての再建を図ったので,国家による管理炭鉱と呼ばれた。同62年10月国の第8次石炭政策に伴う合理化として三川・四山両鉱を統合して第1坑,有明鉱を第2坑と名称を変更し,従業員も約1割減少して年産350万t体制に改めた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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