100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

三潴郡
【みずまぐん】


旧国名:筑後

古代~現在の郡名。筑後国および福岡県の郡の1つ。筑後国の西部に位置する。北は筑後川を挟んで肥前国,東は御井郡,南は上妻・下妻・山門(やまと)郡および有明海に接する。筑後川・有明海に流入する広川・山ノ井川・花宗川などの流域に開けた地。「和名抄」では「美無万」と記しており,その訓は「みぬま」であろう。弘安4年には「ミぬま」とあり(近藤文書/鎌遺14348),年欠某売券には「ミつま」(近藤文書)と見え,鎌倉期には両様の読みがなされていた。13世紀後半頃から「みづま」とも読むようになったのであろう。「日本書紀」神代紀に筑紫水沼君が宗像神を祀ったとある。また景行天皇18年7月条に水沼県主猿大海が認められる。また,雄略天皇18年9月条に呉からの2羽の鵞鳥を水間君の犬が嚙み殺したので,水間君は鴻・養鳥人を献じて罪を贖ったという。郡名の由来は,筑後川下流域の後背湿地で沼沢が多かったことにちなむのであろう。なお,永仁4年の「大善寺并玉垂宮仏神事記」には「三妻郡」と書き,郡を東・西2郷に分ける。東郷は久留米・八女(やめ)丘陵に連なる高地三潴,西郷は北の郡境をなす筑後川と南方の矢部川との間にあって,両河川の沖積作用,すなわち西の有明海の海退によってできた肥沃な低湿デルタ地帯である。デルタ形成が本格化したのは弥生時代からといわれるが,近世以降は有明海沿岸の干潟開拓が進み陸地化が著しくなった。高地三潴には御塚や権現塚など二重・三重の周濠をもつ古墳群が偏在し,西の低地三潴には古代から整備されてきた水田用の溝渠(クリーク)が網目状に発達する。古代から海上交通守護神として著名な旧県社の風浪宮が大川市に,郡総鎮守社の大善寺玉垂宮(旧県社)が久留米市大善寺町にある。
(古代)「和名抄」の郷は高家・田家・三潴・鳥飼・夜開【やけ】・青木・荒木・管綜【つつえ】の8郷。
(中世)永仁4年大善寺仏神事注文写によれば,三潴郡は東・西・中・南郷と4分されていた(隈文書)。
(近世)天正15年の豊臣秀吉の九州仕置によって当郡は統一政権下に組み入れられ,秀吉は筑後国のうち4郡(山門・三潴・下妻・三池)を筑前粕屋郡の立花城にあって島津軍に最後まで抵抗した大友氏家臣立花宗茂に与え,当郡もその支配下に置かれた。
(近代)明治11年~現在の郡名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7214872