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刀町
【かたなまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。城下町の中央部に位置する。唐津十七か町の1町で内町のうち。町名は正保年間の絵図には見えず,宝暦年間の絵図には見える。俗称片ン町(かたんまち)が江戸中期から刀町(かたんまち)と記されるようになったともいう。昭和初期までは「かたんまち」と呼ばれた。文化年間頃の町筋は東西1町37間,古来本軒41,当時人数164(男82・女82),引合五人組51人(御勝手御用達苗字帯刀御免1・御勝手御用聞2・町年寄2・組頭2・御酒屋2・酒屋2),糀屋・質屋もあり,石船2(松浦拾風土記)。当町は唐津城大手前から名護屋口への道筋に当たり,江戸中期から経済活動が盛んとなった。藩主水野氏時代からは唐津十七か町の実質的筆頭町に台頭し,それは唐津神社の神祭における曳山行列の先頭に立つ「赤獅子」に象徴されている。江戸後期唐津の大商人の大半は当町に店舗を構え,勝木家・菊屋石崎家・米屋喜田家・鬢附屋篠崎家が著名。勝木定兵衛は船問屋のほか米・石炭を商い,文化年間頃は苗字帯刀御免の御勝手御用達であった。菊屋一族石崎嘉兵衛は「赤獅子」の曳山を製作。鬢附屋篠崎与市は御用鬢附のほか両替商を営業し米や石炭も商っていた。また藩の判屋(掛屋)を勤め,はじめ町年寄,天保9年からは大年寄格となった。ほかに油屋安兵衛は御用達を勤め五人扶持を支給されていた。このように当町商人には藩の御用達・御用商人が多く,藩との共生関係によって繁栄し,廃藩とともに姿を消すか衰微していった(篠崎家文書・演説書稿/唐津市史)。寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番として自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている。当時は町火消し石崎支配組に所属(諸事控/唐津市史)。明治元年の軒数57・人数192(唐津市史)。同3年石崎啓助(仕立屋),戸田栄助(呉服屋),篠崎与市(鬢附屋),草場藤兵衛(酢屋)は株仲間の筆頭であった。藩領最後の町年寄は石崎啓助・篠崎与市(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「刀町」とあり,戸数43・人口191。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治20年代大手前から名護屋村へ至る県道拡張が計画されたが,当町商家は軒先を切るのは家門の恥として反対したため県道は当町北の三の丸濠に変更された。そのため当町のにぎわいは他町に奪われた。昭和6年公設市場が弓鷹町から移転したが,戦時中に廃止。同20年戦時疎開のため町並みの西方家屋は撤去された。現在幕末の豪商で残るものは篠崎家のみ。明治30年の人口364(唐津市史)。大正4年の戸数59・人口180。世帯数・人口は,大正14年57・360,昭和35年74・384,同41年70・299。同年一部が南城内となる。




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「角川日本地名大辞典」
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