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唐津
【からつ】


旧国名:肥前

松浦川流域に位置する。元来は松浦川河口の海岸沿いの地域を指す地名で,慶長7年初代唐津藩主寺沢志摩守広高が松浦川河口の満島山を中心に唐津城を築き,城下町を造ってから,東松浦地方の中心地となっている。北は玄界灘の唐津湾に面し,神集島・高島・鳥島があり,東は松浦川の沖積地の穀倉地で,東端に背振山系の丘陵鏡山がある。南部は背振山系から延びる低い丘陵地で花崗岩層が露出し,松浦川左岸の西北部は玄武岩からなる上場台地で標高200m内外の丘陵地。唐津湾は古代は奥深い入江であったが,河川の沖積作用の結果潟を形成した。近世初期に松浦川改修などもあって海岸線は後退し,虹の松原海岸を形成。北西部海岸は玄武岩の岩壁で波の浸食が激しく荒々しい景観を呈し,海岸は磯となっている。昭和25年鏡山山頂より先土器時代の細石刃が発見され,その後,上場台地に属する唐川・竹木場・大良(だいら)・枝去木(えざるき)・佐志・湊・菜畑の各地から同時代の遺物が発見されている。縄文時代の遺跡・遺物も上場台地を中心に発見されている。弥生時代の遺跡は鏡山周辺に多く,農耕の中心がこの地域にあったことがうかがえる。弥生後期になると,桜馬場遺跡の後漢鏡,宇木汲田遺跡の銅剣・銅鉾などの出土,葉山尻支石墓遺跡の存在などが大陸との関係を物語っている。「魏志倭人伝」にいう「又渡一海千余里,至末盧国,有四千余戸,浜山海居,草木茂盛,行不見前人,好捕魚鰒,水無深浅,皆沈没取之」は,この時代の唐津の状況を指すといわれる。古墳時代に入っても,鏡山周辺および松浦川支流地域が生活の中心であった。鳥田塚古墳・樋の口古墳・外園古墳などのほか,旧鏡村や旧久里村の山麓地には久里双水前方後円墳など数多くの円墳や表土のなくなった石室などが存在する。半田の宮の前古墳などからは大陸渡来の金製杏葉形垂飾付耳飾などが出土し,大陸との交流を立証している。唐津の古代の説話として,神功皇后の朝鮮出兵に伴う物語や大伴狭手彦の新羅出兵の折の佐用姫伝説がある。これらは唐津の地が大陸への渡航地であったことを示すものであろう。しかし,大和朝廷の確立期以降は,大陸への渡航地が筑前博多地方に移り,歴史の舞台に上る機会は少なくなった。なお,当地には条里制の名残の地名がある。
唐津(中世)】 南北朝期~戦国期に見える地名。
唐津城下(近世)】 江戸期の唐津藩の城下町。
唐津町(近代)】 明治22年~昭和6年の東松浦郡の自治体名。
唐津市(近代)】 昭和7年~現在の自治体名。
唐津(近代)】 明治22年~昭和22年の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216579