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筑後川
【ちくごがわ】


御井川・御井大川(肥前国風土記)・千年(ちとせ)川・千隈(ちくま)川・境(さかい)川(養父郡村誌)・御境(みさかい)川(疏導要書)などともいう。坂東太郎(利根川)・四国三郎(吉野川)と並んで,筑紫二郎(養父郡村誌)の名で親しまれてきた。大分・熊本・福岡・佐賀の4県にまたがる九州最大の川。延長143km,流域面積2,860km(^2),1級河川。この川が幕府の命令で「筑後川」と呼ばれるようになったのは,寛永13年3月であったが,島原の乱により移牒が遅れ,久留米(くるめ)藩に通達されたのは,寛永15年8月であったという。大分県久住山(1,787m)に源をもつ玖珠(くす)川と熊本県阿蘇山から流れる大山(おおやま)川が大分県日田(ひた)盆地で合流して三隈(みくま)川となり,筑紫平野に出て筑後川となる。福岡県久留米市・三潴(みずま)郡・大川市・柳川(やながわ)市と佐賀県側の鳥栖(とす)市・三養基(みやき)郡・神埼(かんざき)郡・佐賀市・佐賀郡などとの県境を流れて有明海に注ぐ。「疏導要書」に「千年川 宮ノ渡広サ七十間,豆津渡広サ百間 此川筑後肥前ノ御境ニテ御境川ト相唱ヘ日本大河ノ内ニテ水上ハ豊後ノ山々谷ヨリ打出シ,数里ニシテ肥後領宮野原ト云所ニ出ル,此所滝アリ(沈堕ノ滝正説ナリ)半高滝ト云,是則御境川ノ水上ニテ滝壺マデハ久留米其外ノ通船是アリ,此所ヨリ豊後杖立マテ道法三里程,同所ヨリ日田マテ十里程ナリ,同所ヨリ豆津マテ十六里ホト又同所ヨリ大詫間崎マテ十里程ナリ,如此水上ヨリ海際マテ道法既ニ四十四,五里ニモアルヘキ川ナレバ水勢常ニ夥ク,又其内ニモ筑後筑前ヨリ打出ス川々モ数多ニテ皆々川筋ニ落入ル事ナレハ降雨ノ節ノ水勢殊ニ凄涼シク漲落ルユエ,此川筋ニ近キ国々福岡領偖又久留米田代ハ云ニ不及,御領内ハ轟木ヨリ始メ三根養父神埼佐嘉ノ村々往還道下ノ所此川ノ為ニ耕作ノ憂トナル事毎歳ニテ農民ノ心苦云計リナシ,依之成富茂安其災害ヲ除ク為ニ千栗ヨリ南坂口村マテ道法三里ノ間敷三十間高サ四間ノ土井ヲ築立ラレシヨリ洪水ノ憂余程寡ク相成タル由ナルモ,右ノ如ク数十里ノ間所々ヨリ流落ル大河ニテ水嵩夥ク四ケ領ノ間ニ打集ル水ナレハ,中々急ニ南海ニ引落ス事叶カタシ,其上ニ先年久留米領若津ト云所ニ問屋ヲ立船着ヲ賑サント川西道海島ノ水当リ二百六十間程ノ荒籠ヲ築出シ,西ニ当ル水ヲ東ヘ刎サセ右早津江ニ引落シケル故,水上ヨリ落集ル水此荒籠ニ支ヘ猶又滞ル様相成,惣テ御城下多布施川ヨリ東三根,養父マテノ間,御領内ノ山々谷ヨリ打出ス川筋モ十余筋,直ニ大河ニ打出スモアリ又佐嘉江ニ落入リテ打出スモアリ。皆々大河ノ水嵩少キ時ハ右ノ川々速カニ引落ス事ナレドモ降雨数日ニ及フ時ハ御領内ノ川々ヨリ落下スル水ト大河ノ水ト又南海ヨリ満上ル潮トニ支ヘ,佐嘉江ヨリ三根,養父,神埼道下ノ所扨又久留米,田代ノ村々人家軒ヲヒタシ数里ノ間一面ニ大海ノ如クニテ作民ノ困窮揚テ算ヘカタキニヨリ公訴ヲ奉リシ末三,四十ケ年以前万年何某ト云御旗本下向アリテ,右ノ道海荒籠ナレハ中々水底マテ悉ク取除ク事叶ハスシテ其功ヲ空シクスルニヨリ思ノ儘ニ水害ヲ除ク事アタハス」と見える。筑後川は水量が豊かで,かつては大分県日田方面から筏を組んで木材を運んだ。河口の福岡県大川市はそれを使って発達した木工単一産業都市である。また,佐賀市の材木町の町名も当川と佐賀江川を水路として運ばれてきた木材の陸揚げ地点にちなむ。このほか筑後川は物資輸送の水路として重要な役割を果たしてきた。筑後川水系の主な河港の当県関係分を「津今昔(佐賀新聞)」により,上流部からあげると,豆津・江口ノ浜・江見津・東津・大島・中津・詫田(たくた)・崎村・黒津・蒲田津・大堂(おおどう)・橋津・大津・諸富津・高津・石塚・浮盃(ぶばい)・寺井津・三重津・早津江津・中津があった。豆津(三養基郡北茂安町)について天保12年日田の学者広瀬淡窓は「予船に乗りて豆津を渡る。岸より西,肥前の地なり。豆津にて干飯……」と「懐旧楼筆記」に記している。ここは肥前と筑後・有馬藩の境で番所があり,渡船があった。いまは橋で久留米市と結ばれている。以前は船橋で最初の橋は木造で大正3年ごろ架設された。現在の橋は昭和7年に,当時の軍都佐世保と久留米を結ぶ重要な橋として架設された。江口ノ浜(三養基郡北茂安町)については,同町北部の白石で明治30年ごろまで「志波焼」といわれる磁器が焼かれていたが,原料の陶石は天草から有明海・筑後川を船で運んで,この港に陸揚げされた。陶石のほかにサツマイモ・塩物・夏ミカンなども陸揚げされた。昭和10年ごろまで安武村(現久留米市)との渡船があったという。江見津(三養基郡三根町)は筑後川の旧河道が大きく北に蛇行している突端部に立地した河港で,昭和初期まで機能していた。この港からは粘土瓦や和傘が積み出され,塩などが移入され,「塩屋」という商家が残る。その塩を求めに,脊振・中原あたりからも馬の背に木炭や薪を積んできていたという。東津(三養基郡三根町)にはカライモ・海産物・塩などを積んだ小船が寄港した。大島(神埼郡千代田町)には「大島江湖」と呼ばれる水路が走り,物資輸送の動脈であった。明治から大正にかけて,付近では農家の副業として,瓦の材料となる粘土取りが盛んであった。粘土取りは,水田の水かかりをよくするため水田面を下げることも目的の1つであった。この粘土は,対岸の福岡県城島(じようじま)の瓦工場に当港を経由して積み出された。大島江湖(井柳川)の上流部,三根町直代(ちよくたい)は当時,瓦・煉瓦を産し,その原材料を運ぶのにこの水路の上げ潮が利用された。筑後川の砂取りも盛んであったが,それも姿を消し陸路の発達で水路の利用もなくなり,昭和51年筑後川に通じる水門が造り替えられ船の出入りは絶えた。中津(千代田町)には船着場跡が現存する。かつては石灰やサツマイモが陸揚げされ,特にイモは中津のイモ売り商人として10人程が近郊から山間地あたりまで売り歩いたという。詫田(千代田町)は筑後川の河道から4kmほど田手川をのぼった所にある。半月に一度の大潮のとき船が入りその日の引き潮に乗り遅れないように,あわただしく荷揚げが行われたという。肥料類が多く,大坂方面から大豆カス,平戸・五島方面から干鰯(ほしか),のちには熊本などから石灰も荷揚げされた。筑後川に面した若津・黒津の港で小船に積み替えて田手川をのぼった。肥料と引替えに米が積み出された。「肥前国風土記」の神埼郡条船帆郷に「同(景行)天皇……落葉の船に帆を挙げて三根川の津に参ゐ集ひて,天皇に仕へ奉りき。因りて船帆の郷といふ……」とある三根川は現田手川・馬場川とみられ,船帆郷とは詫田一帯と推定される。崎村(千代田町)は筑後川と田手川の合流点付近にあり,かつて郡内で屈指の物産の集散港であった。藩政期から昭和のはじめごろまで米・カマス・菜種油・白蝋・瓦などが移出された。肥料・木炭などが移入された。国営田手川改修事業のために,昭和36年ごろまであった家並み・船着場は姿を消した。この集落には下村湖人の生家がある。黒津(千代田町)は半農半漁で,木船で有明海へ貝や海草を採りに下ったが今はノリ養殖が行われる。昭和20年代まで渡しがあった。蒲田津(佐賀市蓮池町)は筑後川の旧河道にあり佐賀江川の玄関口に位置する。昭和初期まで魚肥が移入された。藩政期には佐賀江の要衝であったので番所が置かれた。昭和40年に蒲田津水門が建設された。大堂(佐賀郡諸富町)は筑後川から佐賀江川を1.7km上流の地点にあり,かつて木炭や薪などを取り扱う商業地であった。橋津(諸富町)は筑後川から佐賀江川を約1kmさかのぼったところにあり明治末から昭和にかけて塩干(えんかん)商人でにぎわった。大津(諸富町)は嘉瀬川が巨勢(こせ)川・佐賀江川を経て流れていたころ,肥前国府の外港の役を果たしたと思われる(県史)。諸富(もろどみ)津(諸富町)は佐賀藩の重要な貿易港として栄え,米を中心とした農産物をはじめ海産物や焼物などが大坂その他へ積み出された。明治37年船着場から佐賀駅の間に佐賀馬車鉄道株式会社により鉄道馬車が運転を開始した。「五足の靴」(明治40年明星派)に「暫(ようや)くして筑後川に達した。雨は愈(いよいよ)降る。濁れる河を渡ると佐賀迄鉄道馬車がある。乗る。よく見ると品川と新橋との間を通ってよく脱線したそれの御古であった。紋章がその儘(まま)残って居る。思ひきや,筑紫のはてに品川の馬車を見むとは旧知に会う感がした。馬も同じ馬かも知れぬ。ひどく鈍い」と記している。高津(諸富町)は大中島南部の河港,昭和30年諸富橋と大川橋が開通するまではこの島の人々は渡し船で大川の造船所や木工所,諸富のセメント会社へ働きに出た。石塚(諸富町)は明治・大正・昭和の3代75年間,「大川渡し」の渡し場であったが,前述の橋の開通で姿を消した。浮盃(諸富町)には徐福が上陸したという。寺井津(諸富町)は島原の乱の時,鍋島藩の出陣地となった。明治の末ごろまで壱岐・対馬から塩魚や塩物,その他の地域から木炭・マキ・イモなどが移入され,米・酒が移出された。三重津(佐賀郡川副町・諸富町)には安政5年佐賀藩の船手稽古所(海軍所)が設けられ,洋船運用術の教育を行った。文久元年汽缶製造所が設けられ,慶応元年,国産初の蒸気船「凌風丸」が進水した。この造船所で造られた藩の艦船は廃藩置県のとき朝廷に献上され,海軍所も姿を消した。早津江津(川副町)は筑後川の分流早津江川右岸に立地し,藩政期,五島・対馬の塩魚や佐賀・福岡の農産物の集散地で,米蔵や魚類の問屋が並ぶ商業港であった。川副(かわそえ)町中津は同町大詫間(おおだくま)へ渡る県営の渡船場である。第2次大戦後間もなく,上流部早津江と福岡県大野島外開との間に早津江橋が架橋され,渡船場利用は減った。いま川副大橋が建設されつつある。以上のほかに,佐賀市今宿・同北川副町山津・佐賀郡川副町米納津(よのづ)などの河港があった。筑後川の中・下流部は古来洪水の常襲地帯で,川の増水と有明海の満潮による逆流水によって氾濫することが多かった。天正6年から大正7年に至る340年間にこの川の大洪水は118回を記録した(県災異誌)。明治以後,この川は国の直轄河川として改修に取り組んできたが,大正10年・昭和10年・同28年に大水害に見舞われた。このうち,同28年の水害は明治以来85年間における最大のもので,同年6月26日,上流地方は960mmの集中豪雨に見舞われ,中・下流では堤防決壊122か所,約3,500haの田畑が土砂に埋没し,死傷者5,146人,被害総額450億円にのぼった。洪水常襲地域の人々は,洪水の災害を避けるため,家を建築する際田畑より高く土盛りをし,さらに母屋とは別に「水屋」という避難家屋を作り,戸別に避難用の「揚げ舟」を所有した。いまでも「揚げ舟」を所有している家がみられる。昭和39年10月,利根川・淀川に次いで水資源開発促進法の開発水系に指定され,松原・下筌(しもうけ)・江川・寺内などの各ダムがつくられた。筑後川水系の水資源開発基本計画は,流域住民の利害関係の対立などで紆余曲折を経て,昭和56年2月に同60年を目標とする全面改定が行われ,新しく佐賀導水・筑後川下流用水事業など9つの事業が盛り込まれた。筑後大堰についてみると,これは筑後川の洪水を防ぎ,農業用水や水道用水を取水することを目的として建設されるもので,昭和55年12月24日「流量問題に関する協定書」が調印され,建設工事が始まった。三養基(みやき)郡北茂安(きたしげやす)町と福岡県久留米市安武町の間,延長500m・総貯水量550万tの規模である。この大堰からの取水によって運用される当県内の事業は,筑後川下流土地改良事業と佐賀東部水道企業団用水供給事業がある。前者は佐賀・筑後平野の5万5,000ha(うち当県3万7,000ha)を対象に農業経営の近代化を図るもので,圃場整備に伴う農業用水の確保や白石平野の水源転換など水利体系の再編成を行うものである。また,後者は佐賀市以東の13市町村(鳥栖市を除く)に水道用水を供給するもので,上水道の普及,小規模水道事業体の統合,水源の確保など当県東部地域の生活向上に役立てようというものである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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