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蓮池藩
【はすのいけはん】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の藩名。外様大名。無城格。柳間詰。寛永16年鍋島直澄が分知されて成立。その成立過程は寛永12年,佐賀本藩2代藩主に就任予定の鍋島忠直(初代藩主勝茂嫡男)が病死し,忠直の子光茂幼少のため,勝茂は三男直澄に相続させる意図で忠直の妻恵照院を直澄に再嫁させる。しかし,藩内部の反対に会い,さらに光茂と直澄に佐賀藩領を等分する案も考えられたが,これも反対が多く中止となり,同16年直澄は分家し蓮池鍋島家をおこす。ここに佐賀藩の支藩としての蓮池藩が成立。3支藩のうちでは最も遅く成立した。歴代藩主は直澄―直之―直称―直恒―直興―直寛―直温―直与―直紀の9代。所領高は同16年蔵入・家中ともに知行3万5,624石余(物成1万7,812石余)を支給される。このうち1万3,601石余は蔵入と切米取家臣の分(鍋島勝茂覚書)。佐賀藩の相続問題との絡み合いのなかで新規創設藩のため,本藩の蔵入地を分散的に割譲される。同17年,物成3,237石余が加増。明暦2年の着到帳では物成高に変化はないが,知行高表示が4ツ成に統一されたので,5万2,625石となり,以後幕末までの正式表示高となる。所領は,各地に散在し,嘉永6年写の「大小配分石高帳」によると,神埼(かんざき)郡の西・蒲田・崎村・用作・詫田・嘉崎の6郷29村・地米6,889石余,佐賀郡巨勢(こせ)郷10村・地米765石余,杵島(きしま)郡川古・三法潟の2郷10村・地米3,871石余,松浦郡伊万里郷1村・地米206石余,藤津郡嬉野(うれしの)荘・吉田郷・塩田(しおた)郷34村・地米9,284石余で,総地米高は2万1,017石余。3支藩は独自な支配権を有し,幕府に対しても参勤交代・普請役・御馳走役を負担する。しかし,幕府から朱印状を交付される独立支藩とは異なり,所領高は佐賀本藩の高のうちに含まれる内分支藩で本藩の支配権に拘束される。本藩の着到(分限帳)でも家臣と同様に知行配分される。寛永17年幕府は蓮池・小城・鹿島の3支藩を部屋住格の大名として承認。正保元年より直澄は参勤・公儀奉公を務める。承応3年佐賀城三の丸より蓮池の館に移る。封地が5郡にまたがり不便なため,藤津郡塩田(しおた)に館を移そうとしたが,本藩の反対で実現しなかった(蓮池日史略)。天和元年,直之が八朔の祝儀で本藩に無断で将軍に太刀を贈り,本藩との不和を生じる。同3年三家格式が制定され,支藩主は本藩主の家臣扱いをうけることになり,本支藩関係が確定した。宝永元年藩士の給禄に出米を命じ(同前),以後定例化。享保年間より財政逼迫し,元文3年参勤中止を本藩に請う。天明4年藩校成章館(慶応2年育英館と改称)を創立。寛政8年より2年間財政を本藩に委託する(蓮池日史略)。文政年間より軍事訓練を活発化させ,長崎防備拡充のため本藩に協力する。文化14年直与は城主格昇進願を小城藩主直堯とともに本藩に提出したが,本藩は藩体制維持のため家格の変化を望まず実現しなかった。幕末にかけて本藩の中央集権政策は強化され,天保13年直与の寺社奉行就任も本藩が異議を唱え,実現しなかった。天保年間より活発に砲術演習を行う(同前)。安政元年幕府は,三家に5年間参勤と諸公務の猶予を許可し,同5年には長崎防備拡充のため以後5年間は11月中参勤,2月帰国(100日在府)を命じる。明治元年戊辰戦争に際し総勢545名を出羽国へ送る。家臣団の所領内における居住状態は,27石5斗以上の知行取層が城郭所在地の蓮池村に約41%居住し,城下町集住の形態を呈す(家禄追渡請願人員調査簿)。身分格式の区分では,親類・家老・下班家老・侍・手明鑓・御歩行・役人組・足軽・小道具・長柄鑓・船子・御被官・山田党より構成され(蓮池日史略),100石以上の大身53名,大半が100石以下。知行取は侍が15石以上,手明鑓が12石以上。嘉永5年の三家御親類同格家来人数附では家臣は総勢1,005人。藩政機構は請役所・御蔵方・御目付方・御火術方・成章館・御側方・江戸御屋敷・大坂御屋敷・佐賀聞番・塩田役所・修理方・寺社方・町方・東目代官所・藤津代官所・杵島代官所がある(故実探求録)。藩内の人口は,元禄12年2万5,172人,安政4年3万5,900人(県の歴史)。財政補充策としての国産品奨励で,明和4年塩田西山製陶器を大坂で販売,同6年塩田吉田村製造の紙を堺商人に販売させるが失敗。運上銀は,諸商売運上21貫663匁,櫨27貫14匁,酒造糀屋5貫975匁,釜運上3貫477匁,石場1貫777匁などがある(天保15年東邑戸口帳・西邑戸口帳)。諸運上銀の多い吉田郷・嬉野荘は全域蔵入地に指定している。幕末の軍事改革が急速に押し進められるにつれて,累計借用金額が安政2年276貫400匁,同3年288貫417匁,同4年502貫322匁,元治元年1,045貫30匁,慶応元年738貫余,同2年789貫余,同3年631貫800匁,同4年1,256貫,明治元年金5,700両,同2年金3,000両,同3年金9,438両,同4年金2,200両と増大する(諸証文諸控)。債主は大半が大坂の鴻池で,用金調達の抵当は蔵入地の物成米が引当てられた(同前)。一方,明治2年の歳出概要は藩高2万432石,知事家禄1,885石余,海陸軍資1,672石余,士卒禄・公廨入費・軍用費1万5,052石余で,巳年(2年)御払残(藩債)米2,250石,金4万2,251両とも見える(明治3年藩治職制調)。明治4年蓮池県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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