100辞書・辞典一括検索

JLogos

46

伊佐早荘
【いさはやのしょう】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~室町期に見える荘園名。肥前国高来(たかき)郡のうち。「宇佐大鏡」に「伊佐早村田畠」と見え,「件田畠者,自本領主藤井宮時之手,御前権検校僧円昭令譲得之間,自円昭之手,大宮司公通譲得之上,宮時男宮行又与譲状畢,仍公通私領也〈是公通立新券,請神官判由緒也〉」と記されている(到津文書/大分県史料24)。これによると,伊佐早村の田畠は本来国衙領であったと思われるが,藤井宮時の私領となり,宮時から宇佐八幡宮の神宮寺の供僧とみられる権検校の僧円昭に譲られ,さらに円昭から宇佐八幡宮大宮司の宇佐公通に譲られ,公通の私領となったという。この時,宇佐八幡宮大宮司領として荘園化したと思われ,平安末期のことであろう。その後,正応2年11月日の深堀時仲代沙弥某申状に「伊佐早庄内本所一円地,掠申本所〈御室御所〉……去弘安七年春比,時仲就訴申子細」と見え,当荘は鎌倉後期の弘安年間には仁和寺領となっていた(深堀文書/鎌遺17223)。その後,正和3年10月3日の伊佐早荘雑掌重申状に「仁和寺仏母院御領肥前国伊佐早庄」と見え,当荘は鎌倉末期に仁和寺仏母院領となっており,仁和寺は荘官として雑掌を派遣している(深江文書/佐賀県史料集成4)。文保3年当時は道慶が雑掌であった(上杉家文書/大日古)。正応5年8月16日の河上宮造営用途支配惣田数注文によれば,当荘の田数は253町となっている(河上神社文書/鎌遺17984)。正和2年11月日の深堀孫房丸重申状案に「彼杵庄与伊佐早庄,被載往古之境於譲状」とあり,伊佐早荘と彼杵荘は境を接していたことが知られる(深堀文書/鎌遺25054)。また,南北朝期の康安元年11月29日の重広所領譲状に「ひせんのくにいさはやのしやう(の)うち,ひのミさき,そのうちかハしま」とあり,荘域は長崎半島東部の先端まで及んでいたことが知られる(同前/南北朝遺4327)。当荘内の地頭と郷村については,宝治元年10月6日の六波羅施行状案に「伊佐早庄内遠竹村」と見え,当荘内の遠竹村が鎌倉幕府から高木勝丸に安堵されている(高城寺文書/鎌遺6886)。同年11月5日の大宰府守護所下文案によれば,当荘内遠竹村などの地は,勝丸がこの前年4月23日に父高木家明から,同11月日に祖父高木家朝から譲渡を受けたものであり,この年9月15日の関東下文をうけて大宰府守護所から安堵されている(同前/鎌遺6896)。その後,文保3年6月16日の鎮西探題御教書では,遠竹村地頭は高木維貞であった(上杉家文書/大日古)。また,伊佐早荘内永野村は正治2年12月4日江高宗から養子納に譲渡され,さらに承元2年4月納から舎弟達に譲渡されたが,建暦3年閏9月江達はこれを宗像大宮司氏国に沽却した。嘉禎3年閏3月氏国は舎弟氏経に譲渡し,さらに氏経から子息の宗像氏業と永野氏郷に譲渡されたが,両者の間で相論となったので,弘長2年永野村を中分し,東方を氏業,西方を氏郷が領知することになり,両方の境を朱筆で絵図に引き,肥前国守護武藤資能が加判した。中分された氏業分は,田地36町1反2杖中,給田11町7反2杖,在家分畠地11町7反2杖,井牟田半分,山野などであった(宗像神社文書/鎌遺9093・10918)。しかし,長野村は船津家重に押領され,文永8年11月19日幕府は長野村を宗像氏業と長野氏郷の知行と認めている(同前/鎌遺10918)。文永11年6月18日の浄恵(宗像氏業)文書注進状案によれば,宗像氏業は永野村五分二地頭職32町を知行している(同前/鎌遺11673)。このほか,正和3年9月日の伊佐早荘雑掌重申状によれば,船越村惣領主船越家通と地頭安富頼泰が知られ(深江文書/佐賀県史料集成4),宇礼志野氏も当荘内矢上村に所領を有していた(嬉野文書/県史古代中世編)。南北朝期において,当荘はほぼ一色道猷の支配下にあり,建武5年2月9日深堀政綱が当荘内戸石村内の田地8町を充行われている(深堀文書/南北朝遺1129)。その中で,足利直冬は貞和6年4月21日白石通秀に伊佐早荘永野村内福久名30町と小野村15町を充行い(橘中村文書/南北朝遺2745),観応2年12月25日大島聞に伊佐早荘内宇岐古里25町など(来島文書/南北朝遺3297),同日相知正に伊佐早荘内福田村10町などを充行っており(松浦文書/南北朝遺3296),一時足利直冬の勢力が及んでいる。なお,康暦2年8月4日の室町幕府管領斯波義将施行状で,肥前国の「伊佐早郡内宇木小次郎・宗像八郎・長野跡等地頭職」が大友親世に沙汰付けられており,永徳3年7月18日の大友親世当知行所領所職等注進状案にあげられている所領所職には同所も含まれている。「伊佐早郡」は他に使用例が見られず,おそらく伊佐早荘の誤りかと思われる(大友文書/大分県史料26)。伊佐早荘は,南北朝期には荘園として実体を失ったとみられるが,室町期にも応永3年9月16日の深堀時清契約状に「ひせんのくにたかくこをりいさはやのしやう」と見える(深堀文書/佐賀県史料集成4)。中世の史料で伊佐早荘内として見える地名は遠竹・井崎(以上,現小長井町),浦福田・小野・長野・船越(以上,現諫早(いさはや)市),船津(現飯盛町),戸石・矢上(以上,現長崎市),肥御崎・樺島(以上,現野母崎町)などがあげられる。現在の諫早市と小長井町・高来町・飯盛町・森山町の北高来郡全域,および現在の西彼杵(にしそのぎ)郡野母崎町・三和町,長崎市の一部が荘域に含まれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7219407