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大豆津別符
【おおまめつのべふ】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期に見える別符名。肥前国高来(たかき)郡のうち。大豆津村とも見える。「宇佐大鏡」に豆津別符なる名が見え(大分県史料24),宇佐宮領高来郡油山十二か所のうちの大河山・伊福山が別符化したものとも考えられているが(県史古代中世編),鎌倉期の大豆津別符はこれと密接な関係を持っていよう。正応4年正月18日の関東下知状案は,宇佐社領肥前国大豆津別符雑掌と横大路種経とが下司職をめぐって争ったが,鎌倉幕府は種経の下司職知行を停止する判決を下した,というものである。種経が年貢の未進についても尋究されていることから,種経が当別符内に所領・所職を持っていたこともうかがえる。鎌倉末期には当別符内の得分権をめぐって本所・社家・在地領主の間で煩雑な相論が展開している。元亨3年12月5日の鎮西探題裁許状案によると,当地に本拠を置く在地領主大河幸継(法名幸蓮)は弘安8年岩門合戦勲功地たる豊前国長谷村田地の代替地として得た大豆津別符内田畠在家等を預所増慶に押領されたが,訴訟を起こし,元亨3年増慶の押領を停止させる判決を獲得した。大豆津別符をめぐる相論は,正中2年12月13日の関東御教書案,嘉暦元年12月□日の某陳状案,嘉暦2年10月16日の鎮西探題御教書案によると,宇佐宮神官身輔・前輔(社家)と預所賢叡・賢猷の間,本所と身輔・前輔の間,大河幸蓮と身輔・前輔の間などで行われており,複雑な荘園所職の競合関係をうかがわせるが,鎌倉幕府による判決は惣別符を社家に付し,同別符内の大河氏支配の田畠在家は大河氏に付す,というものであった。嘉暦4年4月23日,大河幸蓮は当地内田畠在家を子息たちに譲与している(以上,大川文書/九州史料叢書28)。当別符は,大河氏の所領と重なる所が多かったと考えられるので,その中心は現在の瑞穂町内であったと思われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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