大村藩
【おおむらはん】

旧国名:肥前
(近世)江戸期の藩名。肥前国彼杵(そのぎ)郡大村に居城を置く外様藩。藩主は大村氏。柳間詰。居城は大村に所在する玖島城で,またの名を大村城ともいう。朱印高は2万7,973石。鎌倉期の地頭より発展した大村氏は,島原の領主有馬家から養子に入った純忠時代に,戦国大名としての地歩を固めたが,隣接諸大名との激しい抗争や一門・家臣団の統制に苦慮し,キリスト教による思想統一と長崎の開港・寄進による外国貿易の独占を通じて,領主権の確保につとめた。しかし,一時竜造寺氏の麾下に属したこともある。天正15年豊臣秀吉の九州仕置ののち,初代藩主喜前は旧領を安堵され,近世大名としての地位を確定したが,それと同時に発布されたバテレン追放令と長崎の収公によって,貿易利潤に終止符が打たれ,藩財政は成立当初から極度の窮乏をきたした。喜前は朝鮮出兵を契機に,兵農分離や家臣団の統制を通じて,自己の領国支配を実現したが,慶長12年「御一門払い」を断行し,庶家一門を追放して蔵入地を拡大し,藩権力を強化しながら,成立期の財政窮乏を克服した。喜前ののち,大村氏は旧族居付のまま1度の転封をこうむることなく,純頼・純信・純長・純尹・純庸・純富・純保・純鎮・純昌・純顕・純熈と12代にわたって藩政を継承し明治維新を迎えた。「御一門払い」後の慶長17年,総検地を実施し,高2万7,973石としたが,これが大村藩の朱印高となって幕末まで継承された。所領は,元和3年の朱印状によれば,大村・郡・萱瀬・鈴田・三浦・江串・千綿・彼杵・川棚・波佐見・宮・伊木力・佐瀬・長与・高田・時津・滑石(なめし)・浦上西・浦上北・浦上家野・浦上木場・戸町・日並・西海・長浦・形上・大串・八木原・川内浦・横瀬浦・面高(おもだか)・天久保・大田和・中浦・多比良(たいら)・瀬戸・雪浦・神浦(こうのうら)・黒崎・三重・陌苅(あぜかり)・式見・福田・大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の48か村,高2万7,973石余。「寛文朱印留」でも同じ。これらの村は,地方(じかん)(東彼杵郡),向地(むかいじ)(西彼杵半島基部),内海(うちめ)(西彼杵半島内側),外海(そとめ)(西彼杵半島外側および大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の5島)の4地区に大別されて管轄された。地方地区は大村・郡・萱瀬・鈴田・三浦・江串・千綿・彼杵・川棚・波佐見・宮の11か村,向地地区は伊木力・佐瀬・長与・高田・時津・滑石・浦上西・浦上北・浦上家野・浦上木場・戸町の11か村,内海地区は日並・西海・長浦・形上・大串・八木原・川内浦・横瀬浦の8か村,外海地区は面高・天久保・大田和・中浦・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・黒崎・三重・陌苅・式見・福田・大島・嘉喜浦・松島・江島・平島の18か村からなる。ただし,その後分村が行われ,地方地区では郡村が竹松・福重・松原の3か村に,波佐見村が上波佐見・下波佐見の両村に分かれ,内海地区では大串村が三町分・下岳・亀浦・中山・宮浦・白似田の6か村に分かれ,また西海村が村松・子々川(ししがわ)の2か村を,長浦村が戸根村を,形上村が尾戸・小口の2か村を,八木原村が小迎村を,川内浦村が伊ノ浦・畠下浦の2か村をそれぞれ分村し,外海地区では天久保村が黒口村を,多比良村が七ツ釜浦村を,大島村が黒瀬村を,嘉喜浦村が崎戸浦村を分村した。こうして地方地区は11か村から14か村に,内海地区は8か村から21か村に,外海地区は18か村から22か村に増加し(向地地区は変わらず),合わせて68か村になった。なお,向地地区の戸町村は安政4年に収公されて幕府領になり,翌5年代地として高来(たかき)郡古賀村が与えられた。一方,「御一門払い」を契機に,庶家一門に代わって在地土豪が譜代とともに藩政中枢に進出し,家老・城代などに任命されて初期藩政を主宰した。城下集住を免れた在地給人は,「御一門払い」によって追放された庶家一門の家来,すなわち在地陪臣団とともに,村大給・小給などの下級の在地家臣団に編成された。ここに大村藩においては,家老・城代などの上級家臣団を基軸に軍事的編成に基づく新しい身分制秩序が形成されたが,4代藩主純長の寛文年間には,武家法令をはじめ各種の農民法令が発布され,政治組織から貢租収取体系・村役人の制度に至る藩制の諸機構が整備・強化された。検地は貞享元年~元禄8年にも実施され,総高5万38石余となり,以後固定した。元禄10年の財政目録によれば,藩領は蔵入地2万8,966石余(59%)・給知2万1,072石余(41%)の割合で,地方知行制をとる藩としては給知率がきわめて高かった。この給知率の高さは,領内に主要産業がなく米穀生産に依存した当藩の財政事情によるところが大きく,また初期以来強力に推進された新田開発も極限に達し,天和~元禄年間には財政難が顕在化していった。宝永3年には毎年1万両の赤字が累積し,江戸・大坂の商人から5万両の借金をするに至っている。ここに6代藩主純庸の享保4年,家臣団の知行制の改革を中心とする享保改革が断行された。9代藩主純鎮は,寛政元年詳細な「御教論」を発布し,藩政の広範な刷新を断行したが,財政窮乏はさらに進行し,こうして10代藩主純昌による広範な藩政改革(化政改革)が断行される。そこでの改革の内容は,知行制の改革をはじめ,貢租収取体系の全面的な改正と強力な流通統制策の実施にあった。11代藩主純顕は,天保改革に取り組み,禄制改革を実施する一方,先の化政改革を修正して,新たな流通統制策を打ち出したが,12代藩主純熈は,安政3年「大村郷村記」(全79巻)の最終完成を期して,領内生産力の強力な把握を実現する一方,外圧に対応する軍制改革を断行し,西洋銃の一斉採用と銃隊編成によって軍事力の近代装備化を図った。大村藩においては,元治の政変において,尊攘派が佐幕派に代わって藩権力を掌握することに成功し,「尊王」の2字に藩論を統一して,活発な藩外行動を実施し,薩長連合を画策した。尊攘派は,こうした実践行動を通じて討幕派に発展したが,慶応3年の藩内党争を契機に,村大給・小給・足軽などの在地家臣団をも包括する広い層の討幕派軍隊が成立し,薩長両藩と行動をともにして,挙藩倒幕へと突入し,その功績によって3万石を与えられ,薩長両藩の各10万石,土佐藩の4万石についで,鳥取・大垣・松代・佐土原の4藩とともに第3位に列した。「藩制一覧」によれば,明治初年の草高5万454石余,うち朱印高2万7,973石余・込高新田改出5,360石余・再改出1万7,120石余,5か年平均の正租米2万1,392石余・銭157貫文余,ほかに諸税金は煎海鼠438貫文余・櫨実1,212貫文余・石炭1,000貫文・茶2,000貫文・陶器100貫文・炭400貫文・塩479貫文余・椿171貫文余,総戸数2万5,626・総人口12万539(男6万626・女5万9,913),うち士族1,821・9,371(男4,535・女4,836),兵卒222・1,005(男517・女488),卒族676・2,937(男1,481・女1,456),寺35。「旧高旧領」では,彼杵郡内で大村・萱瀬・鈴田・三浦・千綿・彼杵・川棚・上波佐見・下波佐見・宮・伊木力・長与・時津・浦上・長浦・大串・川内・横瀬・面高・多比良・瀬戸・雪浦・神浦・三重・式見・福田・松島・平島・竹松・福重・松原・七ツ釜・黒瀬・崎戸・下岳・亀浦・村松の37か村,高5万9,591石余,高来郡内で古賀村の1か村,高448石余。明治4年7月廃藩置県により大村県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7219942 |