萱瀬
【かやぜ】

旧国名:肥前
郡川上流域から下流域にかけて位置する。東部は経ケ岳・多良岳・五家原岳がそびえる山間部。もとは皆是と記した。これは,大村藩領が阿弥陀仏四十八願にならって48か村に分けられ,領内検地において当村が最後に検地されたことから,仏典の「皆是阿弥陀」にちなんで皆是村と称したと伝えられる(大村郷村記)。のち藩主大村純長の代(慶安4年~宝永3年)に萱瀬に改めたという(同前)。霊峰多良岳の山頂には大村家が信仰した太良山金泉寺と多羅山大権現があったが,天正2年のキリシタン焼き打ちにより焼失した。この一帯は佐賀・諫早(いさはや)などの領域と接していたため,戦国期には周辺の戦国大名が大村攻撃の際,最初の侵攻地とし,たびたび大規模な合戦が行われた。そのためこの谷間には6か所の出城・砦が造られた。なかでも最大の合戦は,文明6年有馬貴純と大村純伊が中岳原で戦った中岳合戦で,有馬勢2,000名・大村勢700名が出陣し,大村純伊はこの一戦で惨敗し,6年間にわたり各地を流浪することとなったという。しかし,これは虚構の可能性が強い(中世九州社会史の研究)。
【萱瀬(中世)】 戦国期に見える地名。
【萱瀬村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【萱瀬村(近代)】 明治22年~昭和17年の東彼杵郡の自治体名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7220289 |




