100辞書・辞典一括検索

JLogos

29

神島神社
【こうじまじんじゃ】


北松浦郡小値賀(おぢか)町にある神社。神島神社は小値賀島前方郷値賀浦の前方湾に東面して所在する地の神島神社と,前方湾を挟んで対置する野崎島の北部山中に鎮座する沖の神島神社の2社に分かれ,本来はそれぞれ前者が辺津宮,後者が沖津宮の関係にあった。主祭神は共に神島大明神(鴨一速王)で,志々伎大明神(十城別王)・七郎大明神(七郎氏広王)を併祀する。主祭神の一速王は一隼太・一隼丸・稚武とも称し,日本武尊の子で仲哀天皇の弟であった。神功皇后三韓出兵のおり,その戦功により鴨の一字を賜って鴨一速王と称するようになったという(前方村郷土誌)。一速王,十城別王(平戸志々伎神社主祭神)および七郎氏広王(平戸七郎神社主祭神)の3神が西海鎮護の勅命を受けて当地に赴き,一速王が値賀浦に上陸して宮居を構えたのが神島神社の起源と伝え,慶雲元年神託によって上宮を野崎島に設け,和魂を本宮に,奇魂を上宮にったという。貞観18年6月に「神島神」として正六位上から従五位下に叙されている(三代実録)。また,応徳3年には松浦一族と推測される源近が径3尺1寸の御聖体を寄進するなど,古くから一円の信仰を集めていた。沖の神島神社の別当は,山麓海岸にあった真言宗万福寺(平戸志々伎神社別当円満寺末)が勤めた。寛文年間に地の神島神社の宮司坊が無住となったため地・沖両神島神社の別当となり,天明7年松浦静山によって前方郷鳥山に移されたが,明治4年廃寺となって平戸談義所に合併された。歴代平戸藩主も両社には篤い崇敬を寄せ,地の神島神社に対して元和3年永代10石,寛永12年刀剣一振,寛文13年神殿再築など,また沖の神島神社に対しては文禄5年神殿再興,寛永2年永代8石を寄進するとともに,主な祭礼には小値賀押役が必ず藩主の代参として参詣した。沖の神島神社にはお山参りと称して8月3~18日の期間小値賀町内各地区ごとに船を仕立てて集団参拝するが,かつては宇久島や上五島地域からの参拝者も多かった。地の神島神社の大祭は9月9日(現在は10月9日)で,文政4年の「御祭礼行列帳」によると神輿渡御の式は松浦法印朝鮮出陣の式にのっとり,押役所から鉄砲10挺をはじめ弓矢,槍,矛などを備えて整然と儀衛し,また流鏑馬や能・狂言・芝居などもあって五島列島随一の盛大さであった。明治7年地の神島神社は村社に,沖の神島神社は郷社に列した。地の神島神社周辺は弥生時代から中世に至る各時代の遺物を大量に出土しており,とりわけ古墳時代から奈良期にかけての遺跡としては五島列島中最大の規模であり,さらに近くには五島列島に唯一基現存する神方(かみがた)古墳もある。また,敗戦直後米軍に接収されて以来行方不明となっている旧国宝狛剣(こまつるぎ)は,平戸亀岡神社所蔵の環頭太刀狛剣(国重文)と同じもので,鴨一速王の佩刀と伝え,地の神島神社の神宝であった。また沖の神島神社には八葉形胡州鏡・中国黒褐釉壺・青磁大盤など大陸系の品々が蔵されていて日宋貿易時代の様子をしのばせる。沖の神島神社の社叢はスダジイを主体とする大規模な第一次原生林で,天狗岩・畳石・銚子石などの奇岩が散在し,数百頭の野生ニホンジカが生息する。神殿背後には磐座の王位石(おえいし)がそびえ立ち,北山麓海中の鳥居と伝える阿瀬からは旧暦大晦日の晩に竜灯と呼ばれる御神火が湧出するという。神島神社はこのほかに宇久町平郷,小値賀町大島郷・納島郷などにもられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7220605