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五島
【ごとう】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える広域地名。肥前国松浦郡のうち。峰上に所領を譲った建保6年8月日の源披譲状案に「海夫〈五島党々〉」と見える(伊万里文書/鎌遺2395)。峰上は伊万里氏の祖と考えられる人物で,現在の佐賀県伊万里市付近を本拠とした同氏が五島にも勢力を有していたことがわかる。披の所領は上から留―勝へと譲られており,文永6年7月20日の源留譲状案には「海夫 五島太平戸党」,正中3年3月7日の源勝譲状案には「一所,当庄并五島の権公文職……一所,五島の海夫おほひらつの党」と見える(同前/平戸松浦家料)。安貞2年7月3日の預所法眼某下文によれば,値賀五島公文所に対し,山代固を値賀五島惣追捕使に任じるよう沙汰している(山代文書/鎌遺3764)。山代固は,小値賀(おぢか)島本主清原是包の姪清原三子と御厨執行直の間に生まれた囲の子で,前述の下文には,値賀五島惣追捕使・定使職は相伝の職であると固が述べたことが見える。固の死後,娘の源氏と後家尼の間で遺領をめぐる相論が起こり,延応元年9月1日の六波羅探題北条重時同時盛連署書状では「宇野御厨内五島惣追捕使並定使職」について後家尼が在京の折申し述べたことが見え,幕府は後家尼の言い分を認め,固の遺領は後家尼一期の後,固の猶子である山代広に伝領されることになった(同前/鎌遺5470)。建長2年9月5日の関東御教書によれば,五島惣追捕使・定使職を濫妨するとして山代広が宇野御厨地頭等を訴えているが(同前/遺7231),この両職は山代氏に相伝され,建武4年4月3日の足利直義安堵状で山代弘に安堵され(同前/南北朝遺911),同年5月28日に一色道猷施行状が出された(同前/南北朝遺959・960)。弘は貞和6年3月20日,両職を嫡子「ちやうかめ」に譲っている(同前/南北朝遺2718)。正応4年6月日の河棚住人秋丸恒安申状案には「五島西浦部内青方四郎殿」と見え,白魚時高にあてた永仁6年8月30日の肥前国守護代平岡為尚覆勘状写に「五島白魚田地弐町分」と見える(青方文書/鎌遺19777)。青方氏は現在の上五島町内,白魚氏は若松町内を本拠とした豪族で,両氏やその同族は以後,自らの所領や所在等について記す場合に「肥前国五島内」といった表現を用いている(同前)。正安2年7月5日かと考えられる近衛家本追加の文書には「肥前国五島内盛島前住人良全謀書事」とある(中世法制史料集1)。文保2年12月9日の鎮西下知状案によれば,那智兵衛次郎入道跡が肥前国五島浦知行分河上社造営用途を弁済しないとして河上社雑掌に訴えられており,五島に河上社の所領が存在したことがわかる(実相院文書/佐賀県史料集成15)。また,永仁6年9月2日の肥前国守護代平岡為尚書下案には盗人を五島に流すことが見え,幕府にとって五島は辺境の流刑の地とも考えられていたことがうかがえる(青方文書/鎌遺19791)。南北朝の動乱期になると,観応3年2月1日の足利直冬充行状写には「五島内日島浦」の代わりとして「肥前国西浦三十町」以下の地頭職が伊東祐武に与えられたことが見え(伊東文書/南北朝遺3323),同年6月29日の足利直冬充行状写においても確認されている(士林証文所収伊東文書/同前3428)。また,年未詳9月12日の沙弥宗願書状案によると,源清宗の五島所務が妨害されたことが知られる(青方文書/史料纂集)。このように諸勢力の割拠する中で,五島の支配者として成長していったのは宇久氏であった。宇久氏は元来宇久島に居住した鎌倉御家人であったが,永徳3年宇久覚が福江島の岐宿(きしく)へ移住,その子勝の時代に辰の口城へ移ったといい,この城を本拠としてやがて五島支配を確立,文禄元年朝鮮出兵に際し姓を五島に改め,以後近世大名五島氏として発展するのである。その後戦国期には,天正3年の島津家久の道中日記である「家久君上京日記」7月18日条に「九十九島を左の方ニ見て打過,右方にこたう(五島),福田,永崎夜中に打過候」と見える(鹿児島県史料拾遺4)。島津家の重臣上井覚兼の「上井覚兼日記」天正12年6月27日条には,五島の宇久純定から島原陣の戦勝を祝う使いが来たことが記され,天正13年4月24日条にも「五島宇久和州」(純玄)から使者の来たことが見え(古記録),「勝部兵右衛門聞書」は,天正14年7月27日に島津勢が筑前の岩屋の城を落としたことに対し,五島・壱岐(いき)・対馬から祝いの使者が来たことを記している(旧記雑録後編2)。天正17年12月5日の豊臣秀吉内書案には「五島・平戸八幡者共,高麗之儀被聞召届候」と見える(志岐文書/熊本県史料中世編4)。五島はまた,海賊の根拠地でもあった。「魯山君日記」乙亥端宗3年(康正元年)4月壬午条に,海賊船は五島から発船していると記され(李朝実録之部2/日本史料集成),「成宗康靖大王実録」庚戌成宗21年(延徳2年)11月甲午条に「東辺出雲州・石見州,南海一岐,松浦五島・平戸,自余小島無知数,賊徒大多」とあり(同前4/同前),「中宗恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王実録」辛丑中宗36年(天文10年)9月己酉条に「五島倭人……不無作賊之弊」と見える(同前6/同前)。相良氏の記録「八代日記」天文24年4月25日条には,「五島ニヲイテセキ(関)船ト申候而,盗船,五島ウク殿ノ役人ナル(奈留)殿と云方ノ宿所悉破候て雑物云々」と見える。このように海賊が盛んに活動したのは,当地が大陸との海上交通の要地であったためで,その関係史料には「五島」の名が数多くみられる。日中関係においては,まず「太平記」に,文永の役の際,博多に押し寄せた元・高麗の大船団のため五島より東,博多の浦に至るまで海上が陸地になったかのようであったという(古典文学大系)。「允澎入唐記」によれば,渡唐のため宝徳3年10月26日に京を出発した允澎の一行は,享徳2年3月19日に五島奈留浦へ至り,10月に渡海,翌年6月27日に五島へ帰帆したことが見える(日明勘合貿易史料)。また,「戊子入明記」に文正2年3月28日付で「琉事……五島奈留海(安脱カ)寺〈三千斤〉」とある(新訂増補史籍集覧33)。「図書編」日本国序には,「平戸之西為五島〈五山懸海相錯而生其中其奥可泊乃日本西境之尽処也〉」とあり,薩摩から1,500里,肥前から430里,平戸から250里,「五島至山口必由平戸」と記されている(文淵閣四庫全書子部276)。「尋尊大僧正記」文明5年6月17日条に,渡唐船は風の関係から「春ハ肥前国大島小豆浦ヨリ船出之,五十里南也,秋ハ同国後唐ノ島ヨリ船出之,五十里北也」とあり(大乗院寺社雑事記5),永正2年5月4日条にも「自肥前国大島〈小豆浦〉,春船ハ進発,秋船ハ同国後唐(五島)ナルトヨリ進発,其間南北五十里也,春ハ南,秋ハ北ヨリ也」と見える(同前12)。「義輝将軍記」弘治2年11月条所引「続善隣国宝記」には「義士蒋海胡節志李御陣桂。自旧年十一月十一日。来至五島」とある(後鑑)。日朝関係においては,「世宗荘憲大王実録」戊辰世宗30年(文安5年)7月己丑条に五島に朝鮮人が漂流してきたことが見える(李朝実録之部2/日本史料集成)。「海東諸国紀」には「肥前州……有五島〈或称五多島〉日本人 往中国者 待風之地」とあり,五島から朝鮮へ遣使した人物として「五島宇久守源勝」「五島悼大島大守源朝臣貞茂」「五島玉浦守源朝臣茂」「五島大守源貞」「五島日島太守藤原朝臣盛」の名が見える。中でも源勝(宇久勝)は「居宇久島 総治五島」とあり,他の者は「源勝管下微者」と記されている。また,勝は「文宗恭順大王実録」辛未文宗元年(宝徳3年)正月癸亥条以後,しばしば遣使記事が見え,「世祖恵荘大王実録」乙亥世宗元年(康正元年)7月丁酉条に,五島宇久守は「雖小既掌五島,与志佐相等」と見える(同前)。「世宗康靖大王実録」己亥世宗元年(応永26年)9月丙午朔条によれば,勝は先に1年に2船までの通交と定められたが,その後定数外の通交も例外的に認められていたことが知られ,甲午成宗5年2月甲申条には,五島に漂着した朝鮮の僧徒を五島守らが本国へ送り返そうと尽力したことが記されている。同年12月壬午朔条によると,勝はかつて年に3船通交していたがこの時には2船に減らされており,もう1船の増加を望んでいたこと,五島内奈留島主は勝の親族であるが独立性が強かったこと,この時点で奈留島主は朝鮮への通交を許可されておらず切望していたことが知られ,これ以後,奈留島主源繁の遣使記事がみられるようになる。丙申成宗7年7月丁卯条によれば,勝は漂流した僧侶を助け送り返したことにより,歳遣船を2船から3船に増やされた(以上,同前3/同前)。その後,「中宗恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王実録」庚子中宗35年(天文9年)9月丙午条には,前年に五島へ漂着した朝鮮の一行を宇久純定が送り返したことが見えるが,この時期対馬宗氏と五島宇久氏は極めて疎遠な関係にあったため,同年10月己卯条によれば,朝鮮側は五島からの使者を応対することで対馬の使者の感情を害さないように苦慮しており,10月壬午条には,五島の使者は対馬の使者に会うことを恐れ慶尚道ではなく全羅道を通って上京したことが見える(同前6/同前)。欠年3月15日の宗将盛書状写には,昨冬高麗人が五島に漂着し宗氏へ引き渡されようとしたが,宗氏はこれを断わったことが見える(大永享禄之比御状并書状之跡付/朝鮮学報80)。なお,現在玉之浦町に所在する大宝寺の鐘銘は,応安8年2月18日付で「大日本国関西路利肥前州州五島珠浦弥勒山大宝寺」とある(日本古鐘銘集成)。ところで,五島には1566年(永禄9年)にアルメイダ修道士がはじめてキリスト教を伝えた。1563年,50歳の領主宇久純定は病気治療のため,槙瀬浦にいたイエズス会のトルレス神父に医師の派遣を乞い,この時は1人の日本人キリシタンが五島に行って治療した。領主は説教師の派遣を求め,1565年五島へポルトガル人が渡来したのを機に,翌年アルメイダらが派遣され,領主や一族の病気の手当てをしたことから次第に信用を得て,まず大値賀,ついで奥浦で信徒ができた(フロイス日本史9,1565年9月23日フェルナンデス書簡・1566年10月20日アルメイダ書簡/通信下)。1568年には領主の23歳の庶子(宇久純尭)が受洗してルイスと称したが,彼は領内で信用があり,いずれ家督を嗣ぐと期待されていた(フロイス日本史9,1568年10月20日アルメイダ書簡/同前)。彼の庇護下で五島の信者は定着した。フロイスはその後の出来事として,五島では淡州(純定)が死去したのち,孫の右衛門大夫(純玄)が後継者となったが,反キリシタンの叔父に牛耳られ,その叔父の画策で淡州の庶子ルイス(純尭)と1年以上争い,ルイスらは長崎に亡命するが,のち島津氏の仲介で家臣半分と五島に帰った,と伝えている(フロイス日本史9)。一方1579年(天正7年)12月10日カリヤン神父の書簡は,領主の父はキリシタンでイエズス会を庇護したが,その死後反キリシタンの人物が諸島を治め,領主は年少のため次第に信徒を迫害したので,多数の信徒が国外へ出た,と報じている(通信下)。人名と年代に混乱があるが,現在では,純定の庶子ルイス純尭が1576年領主となり,3年後の1579年に没すると,純玄(純定の長男の子)が跡を嗣ぐが,純定の三男ルイス玄雅はこれと争って長崎へ亡命し,のち島津氏の仲介で和解して,1594年(文禄3年)純玄の死によって玄雅が跡を嗣いだとされている。純玄は反キリシタン政策を取り,1582年(天正10年)の日本年報は「五島は異教の領主の治める数箇の島で,彼は平戸の領主に劣らぬキリシタンの迫害者である」と伝え(イエズス会日本年報上),1584年には,マニラから日本へ来たスペイン船が,五島と思われる島に着いた際入港を促されたが,島主が棄教者であったため,これを断るという一件もあった(西班牙国セビーヤ市インド文書館文書/大日料11‐7)。宇久純玄はもともと重臣や貴人の入信を禁止していたが,豊臣秀吉のバテレン追放令後は次第に圧迫を強め,1590年(天正18年)には洗礼もキリシタンが葬式を出すことも厳禁し,翌年ついに宣教師を退去させてしまった(フロイス日本史11・12)。この状態は次の玄雅の代が来るまで続いた。ところで,五島の当時の生活について,宣教師の報告は比較的豊富である。1566年(永禄9年)フロイスは次のように述べている。五島は魚と塩だけが豊富な所で,肥後と肥前の国はここから塩・魚油・干魚・塩魚の供給を受け,見返りに米・小麦・大麦・服地をもたらす。狩猟がさかんな土地で,住民は一般に貧しい。寺院が多く,住民は迷信深い(同前9)。1568年(永禄11年)に滞在した神父も,この島は甚だ不毛で塩と魚類のほか産せず,他の一切は他国から来るので,これより貧しい地はないと思われるほど貧しく,何もかも欠乏している,と伝えている(1568年9月4日バラレッジョ書簡/通信下)。主たる産業の製塩業についてフロイスは1593年(文禄2年)の記事に,「彼らは塩を火力で製造しており,大きい火の上に塩水を入れる大きい容器を置き,その下で火をたいて塩になるまで(塩水を)煮つめる」,また,塩のかま1基を数人で共有することもある,と記している(フロイス日本史12)。1588年(天正16年)には戦争のため商人が出入りせず,異常な食料不足と物資欠乏がおこり,翌年は大きい台風に2度見舞われて,家屋の大半と塩焼竈が倒壊し,収穫が失われ,他所へ移転する者も出た(同前11)。1593年(文禄2年)にも,五島は不毛でひどい貧困がみられた(同前12)。なお,五島の称は,江戸期以降も使用され,五島を支配した宇久氏は五島氏を称し,近世大名となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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