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八幡町?
【やはたまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は長崎外町の1町。陸手(おかて)に属した。長崎港に注ぐ中島川下流左岸に位置する。紙漉職人によって開かれたので,既に起立していた本紙屋町に対して新紙屋町と称し,新紙漉町とも称されたが,延宝8年町内に八幡神社を祀ってから改称した。享和2年の長崎絵図によれば,長崎の北東部に立地し,町並みは南北に延び,南は麹屋町に隣接していた。正保4年の長崎外町ケ所数之帳では新紙屋町と見え箇所数57(柏原家文書),寛文3年の町の長さ304間・家持55(寛宝日記),同12年の町の長さ342間,実箇所数60,諸役御免箇所3(県史対外交渉編),文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数6,615坪余,箇所数62,竈数240,戸数271・人数601(男304・女297)。地内には正保元年開創の臨済宗宝池山徳苑寺(のち廃寺),承応2年開創の黄檗宗白鳩山大覚寺(現八幡神社),万治元年開創の真言宗金蔵院(のち廃寺),寛文12年開創の天台宗大覚院,および水神社・高麗橋・阿弥陀橋などがあった。乙名職は,明暦年間は江口藤右衛門であったが,寛文年間に木下八郎左衛門が任じられてからは,潤蔵(元禄年間),善七(正徳年間),潤左衛門(寛延年間),善七(宝暦年間),清左衛門(天明年間),志賀之助(文化年間),勇之助(文政年間),潤太郎(天保年間),志賀之助(安政2年~明治元年)と,木下家が相続した。なお,木下志賀之助は木下逸雲のことで,画人としても名高く,鉄翁・三浦梧門とともに長崎三画人といわれた。また当町には,文政11年に長崎ではじめて常設の芝居小屋として許可された八幡座があったが,昭和22年火災によって全焼した。明治11年長崎区,同22年長崎市に属す。大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内には八幡町公設市場や材木屋・歯科医院などがあった。昭和3年の戸数213,同10年の戸数245・人口1,130,同50年の世帯数396,7街区。くんちの傘鉾の飾りは,永島家の一手持で,八幡社にちなんで弓矢と鳩であったが,万屋町・五島町のものと並んで丈の高い傘鉾として有名であった。昭和41年本紙屋町・麹屋町の各一部,同52年伊良林町1~2丁目の一部を編入。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7223226