椎田村
【しいだむら】

旧国名:肥後
(近世)江戸期~明治7年の村名。飽田(あきた)郡のうち。緑川下流右岸の平坦地に位置する。熊本藩領。慶長12年の検地帳(県立図書館蔵文書)には「川尻庄内志井田村」と見え,高1,633石余,反別138町9反余,家数175・人数227,牛23・馬9。その後の村高は,「寛永郷帳」1,347石余,「正保郷帳」も同高でうち田1,105石余・畠241石余,「天保郷帳」1,365石余。「国郡一統志」は北椎田と南椎田に分け,北椎田に若宮・天神・三社権現・安養寺・法華寺,南椎田に釈迦堂と天神を記す。「肥後国誌」は中椎田村・南椎田村と椎田村を横手手永内に記し,椎田村には「里俗北椎田村ト云」と見え,高818石余,小村に円満堂村・宮ノ前村・金光村などを記す。文政8年の横手手永略手鑑帳(肥後国郷村明細帳2)では,金光村・椎田村・北椎田村・中椎田村・南椎田村が記される。このうち金光村は庄屋安平,本方分が高74石余で反別田4町3反余・畑6反余,上知分が高46石余で反別田2町6反余・畑5反余,給知分が高47石余で反別田2町7反余・畑6反余。椎田村は庄屋甚左衛門,高400石余はすべて本方で,反別は田22町1反余・畑6町4反余。北椎田村も庄屋甚左衛門,高250石余で反別田12町4反余・畑5町7反余,このうち高12石余・田反別6反余が岡町田町出作で,ほかに上権藤村(権藤村)に北椎田村出作も見える。なお甚左衛門は中椎田村・南椎田村の庄屋ともなっている。「旧高旧領」は椎田村・中椎田村・南椎田村を掲げ,椎田村の高は865石余。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。同7年金光村は池畑村と合併して白藤村の一部となり,椎田村・北椎田村は中椎田村・南椎田村と合併して八幡村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7225431 |