下迫間村
【しもはさまむら】

旧国名:肥後
(近世)江戸期~明治7年の村名。玉名郡のうち。菊池川下流右岸,同川に木葉川が合流する付近の北方に位置する。迫間村から分村して成立。熊本藩領。村高は「旧高旧領」515石余。「肥後国誌」では内田手永に属し,高499石余,小村に古閑が見え,禅宗長慶寺跡が記される。文化9年の内田手永風土記(多田隈文書)によると,高499石余,田17町5反・畑26町8反,竈数57・人数282。天保15年の内田手永手鑑(肥後藩の農村構造)によれば,御土物成309石余・請物成269石余。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。同7年両迫間村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7225670 |