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峙原村
【そばはらむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治9年の村名。下益城(しもましき)郡のうち。緑川上流右岸,馬入山の北に位置する。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」195石余,「正保郷帳」も同高でうち田103石余・畠92石余,「天保郷帳」196石余,「旧高旧領」261石余。「肥後国誌」では砥用(ともち)手永に属し,高261石,浄土真宗西派正福寺がある。村の南方に馬入城跡がある。阿蘇家の老臣砥用(篠原)丹後守が元亀2年同地に城を移して,300町を有し天正年間まで在城していたという。城跡の石の祠は権現さんと呼ばれる。正福寺は古くは禅宗東福寺で,現在の薬師堂はその一部といい,篠原丹後守の菩提所と伝える。元和元年に改宗して明暦4年から正福寺と称した。地内には日向街道の八里木があった。現在その榎はなく石柱の記念碑がある。霊台橋(国重文)架設の御用係で大工棟梁の当村伴七は,架橋の功績により名字帯刀が許され,茂見伴右衛門を名乗った。彼は長崎で身につけた測量術・天文学を生かして,天球地球(熊本市立博物館蔵)を製作して藩主の上覧に供した。同じく霊台橋架設に際し大工棟梁として活躍した当村の万助も名字帯刀を許され,広瀬万助と名乗り,日奈久町に藩主の別荘を建築している。別荘はのちに御前湯旅館となった。当地の中央にあった釈迦堂の雲形の彫刻は広瀬万助の作という。慶応3年村上教哲が私塾を開き生徒25人に読み書きを教えたが,明治5年塾は廃止され,同7年内園小学校創立と同時に初代校長となった(砥用町史)。熊本県,八代(やつしろ)県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。同年涌井(ゆい)村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7226087