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中代村
【ちゅうだいむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治9年の村名。合志(こうし)郡のうち。阿蘇立野火口瀬の西方,白川中流右岸に位置する。白川の浸食によって形成された河岸段丘の低い部分。中岡遺跡から弥生式土器が出土。飽田(あきた)郡池田手永の上代村と下代村の中間にあった中代が移転してきた村と伝える。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」781石余,「正保郷帳」も同高ですべて畠方,「天保郷帳」789石余。「旧高旧領」370石余。江戸末期までに津留村・川窪村・中代出分村・大堀木村を各々分村したと思われる。白川に沿って久保田往還が東西に通る。また慶長年間加藤清正が豊後国から入国した際の道筋を殿様往還と称し,二重峠から猪郷谷・丹防川を通り,灰塚村で南へ折れ,大堀木村の西端から北へ津久礼(上津久礼村・下津久礼村)を経て熊本に達するという(大津史)。当地域一帯は江戸期に急速に開発が進み,井手の開削によって水田化された。新井手と瀬田下井手水系の塘井手が合流して地内を流れ,津久礼井手が白川沿いに流れる。はじめ下町組に属す。「肥後国誌」では大津手永に属し,高370石余,「里俗中代本分村ト云」と記され,小村に九文村・外輪村・モロクセ村が見え,地内には観音堂・地蔵堂があり(天満宮2ともいう),白川の九文渡しは,昔,宇土(うと)の伯耆顕孝の妹で合志隆重の室が宇土と竹迫(たかば)の往来にここで船を渡し,鳥目9文で渡すことを定めたことから名付けられたという。氏神は大津町下町の窪田日吉神社で,当村集落の西に菅原神社がある。慶長9年の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば,屋敷数37,畑110町7反余,石高781石余。寛永10年の人畜改帳では,戸数11,高370石余,人数は男46・女42,家数78,牛14・馬16,屋敷11か所で,その反別1町5反余,庄屋は市兵衛,ほかに中代出分の人畜改帳もある。宝暦13年の田畑下名寄帳(同前)によれば,給知の田畑30町3反余,370石余,請藪8町2反余,寛政7年の大津手永略手鑑(肥後藩の農村構造)によれば,高370石余,田6町2反余・畑24町1反余,人数187,牛馬26,庄屋は理三郎。揚酒本手1本,馬口労札1枚が許されていた。新井手は,宝暦年間に白川の上流玉岡淵に磧を設け,地中を通すなどして陣内・上町・下町を通って当地に至る灌漑および生活用水であった。現在は玉岡のすぐ上流で迫堰に合わせて取水している。熊本県を経て,明治5年白川県に所属。明治9年久保田村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7226403