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富岡
【とみおか】


旧国名:肥後

古くは袋(福路)とも呼ばれ,留岡とも称した。天草下島の北西端に突き出た志岐崎半島に位置する。半島の東端から曲崎砂嘴が南東に延び,天然の良港となっている。古く袋と称されたのは,この地形によるものと考えられる。また富岡は遠見丘の転訛で,もとは留岡とも称したといい,従来,寺沢広高が当地に城を築いた時に富岡に改めたとされており,文亀3年に相良氏が八代(やつしろ)の名和氏を攻めた際の記事として「求麻外史」には「富岡」と見えるが,「南藤蔓綿録」には「留岡」とある。なお当地は中世には袋とも称したが,これについては,1567年10月13日付の志岐発イルマン・アイレス・サンチェズの書簡に「その後数日を経て,イルマン・ベルショールとともに附近のフクロと称する地に赴き,わが聖教のことを説き,教を受けたる者百人に洗礼を授け,また志岐に帰りて説教を続け,八十八人に洗礼を授けたり」と見える(イエズス会士日本通信下/新異国叢書)。また1569年10月3日付の志岐発イルマン・ミゲル・バズの書簡には,ミゲル・バズの勤めの1つとして,「フキオといふ他の町の児童等に教ふることなり」と見える(同前)。また天正17年の天草合戦の際(袋浦合戦)には,その主な舞台ともなっている。なお,文禄年間の大島忠泰高麗道記には「志岐の袋と申浦」と見え(旧記雑録後編1),また,パゼーの「日本耶蘇教史」には,1614年の項に「フクロ村の基督教徒アダム荒川を迫害し,六月五日,遂に首を刎ねたり」とある(大日料12‐13)。富岡の城主については不明であるが,志岐城主志岐氏の一族が富岡城主となったものと思われる。富岡城は近世の築城とされるが,富岡城の一部から中世の五輪塔群が発見されており,中世富岡城の存在がうかがわれる。なお同城については寛永15年のものと推定される11月26日付の板倉内膳正・石谷十蔵書状に「富岡之城」と見える(黄薇古簡集/岡山県地方資料叢書8)。なお半島頭部の元袋に縄文時代の遺跡があり,中央部富岡神社境内に古墳2基,さらに半島基部出来町に古墳時代の製塩遺跡がある。付近には国史跡の富岡吉利支丹供養碑(千人塚)がある。
富岡町(近世)】 江戸期~明治22年の町名。
富岡町(近代)】 明治22年~昭和29年の天草郡の自治体名。
富岡(近代)】 昭和30年~現在の苓北町の地区名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7226621