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人吉藩
【ひとよしはん】


旧国名:肥後

(近世)江戸期の藩名。外様。居城は人吉城。藩主は鎌倉期以来球磨(くま)郡内を領した相良氏。戦国末期には葦北・八代(やつしろ)・球磨の3郡に支配を及ぼしていたが,相良義陽の戦死以後球磨郡に屏息し,天正15年豊臣秀吉の九州平定に際し,球磨1郡を安堵された。慶長5年の関ケ原の戦では,はじめ西軍に属したが,のち東軍に内応して旧領を保った。なお日向国臼杵郡椎葉山は那須姓を称する13人の土豪によって支配されていたが,その土豪の間に椎葉山事件と称される抗争があり,元和5年幕府の命により当藩が那須氏を滅ぼして鎮圧した。椎葉山は幕府領を経て,明暦2年からは当藩の預り支配地となった。「元禄郷帳」には臼杵郡椎葉山分として89か村が見え(財木村を脱),うち千ケ平・古川・田向・江代・白水・平谷の6か村には相良壱岐守領であることが記されている。また球磨郡の米良山は,当藩に属して旗本寄合に列した米良氏の支配とされていた。慶長6年の徳川家康黒印状写(相良家文書/大日古5‐2)では米良山は鷹巣山に指定されており,弓・鉄砲を入れることとともに焼畑も禁じることを,相良長毎が米良小右衛門に指示している。藩政における役名には,家老・社寺奉行・用人・大目付・惣頭・勘定奉行・町奉行・郡奉行・近習頭・作事奉行・右筆役・台所役・買物所役・諸御蔵役がある(熊風土記/人吉藩の政治と生活)。当藩ではキリシタンとともに,浄土真宗(一向宗)も禁制となり,社寺奉行の下に一向宗目付を置いて取り締まった。一向宗の禁制は中世の天文24年以来相良氏領で実施されたが,隠れ門徒は相続講・仏飯講の2系統をなして,潜伏して明治期を迎えた。「寛永郷帳」によれば,村数35でほかに一勝地谷など谷数6があり,本田高2万2,165石・新田高2万1,076石余。寛永18年の検地帳によると,「在々案内者百姓口次第ノ上中下」では反別4,509町余・分米3万5,038石余,「案内者口 あけ候もの上・中・下」では反別4,549町余・分米3万8,622石余(相良家近世文書/人吉市史),「正保郷帳」では,高2万2,165石うち田1万4,418石余・畠6,682石余・小物成(漆・茶・桑)1,064石余で,ほかに米良氏領分とされる米良山246石余がある。「寛文朱印留」によると,当藩領は球磨郡一円の41か村,高2万2,165石。享保5年改の領内の家臣・水主などを除く2歳以上の人数4万5,739,ほかに同じく米良山の人数2,958,椎葉山の役人などを含む総人数4,217(嗣誠独集覧/同前)。宝暦・明和年間の諸郷地竈万納物寄によれば,家数9,633うち諸奉公人602・寺社216・修験60・郷士2,864,安永3年改の人数5万3,181(斉藤氏所蔵文書/人吉藩の政治と生活)。同書によると,高瀬船95,当藩へ上羽綿19貫余が納められるほか,物産は茶3万560斤・漆292貫余・楮745貫余など。寛政元年の私領御巡見教令では,総人数6万156,庄家41人・横目61人,馬1万1,267・牛7,126(相良家近世文書/同前)。戦国期の山城のうち内の御城といわれる所に,天正末年頃から藩主居城としての人吉城の築城が始められたが,天草・島原の乱ののち寛永16年工事を中止した。天守閣はなく,本丸を中心に御本城・二の丸などが配され,北に球磨川,西に同川支流胸川が流れ,両河川を挟んで城下町が整備された(人吉市史)。寛政4年に当藩領内を旅行した高山彦九郎は「筑紫日記」に領内に帯刀の人が多いことを記しており(高山彦九郎全集4),平時は農業に従事する郷士の存在が目についたものと思われる。寛文4年人吉城下の町人林正盛による球磨川通船のための球磨川開削工事が完成し,藩主の参勤交代や御用米をはじめとする物資の流通に大きな役割を果たすようになった。正盛は藩主頼喬から多くの下賜品を与えられたほか,球磨川舟運に関する諸問屋の権利を得た(人吉市史)。球磨川の水を引いた百太郎溝が寛保3年にその受益農民の手によって完成し,また元禄9年~宝永2年藩直轄工事として藩士高橋政重の苦心によって幸野溝が完成して急速に開田が進んだ。藩主長毎に仕え,関ケ原の戦では相良氏の存続に功のあった家老相良清兵衛は,長毎没後藩主頼寛によって,藩主に反意を抱くものとして幕府に訴えられた。寛永17年清兵衛は津軽に流され,弘前城下に屋敷が与えられて同地で没した。同城下の清兵衛の屋敷のあった所を現在相良町という(人吉市史)。宝暦6年藩財政の悪化から,御手判銀拝借高に応じて家禄を差し引いて渡すことが家老から通知されると,藩内は家老方と藩主一門の御門葉方に分かれて対立する御手判銀事件となり,御門葉方が処分された(同前)。同8年急逝した藩主頼峰の家督は,家老方の反対した養子頼央に決まり,同9年人吉に入城した。頼央は日向国高鍋藩主秋月氏から迎えられており,就封後は藩内の対立を解消し公平な藩政を推進しようとしたが,同年7月薩摩瀬の御茶屋で狙撃され,8月に没した。竹鉄砲事件と称されるこの狙撃事件は高鍋藩への配慮から,子供が竹鉄砲を鳴らしたものとして暗殺の実態が隠された(同前)。文政4年家老となった田代善右衛門は窮乏した藩財政の再建に尽力し,藩士の知行米削減と副業奨励,領内での焼酎醸造を禁じ,豊後国から茸山師を招いて茸山の育成を行い,椎茸の増産を図り,苧・紙・楮・漆・茶・人参などとともに専売による収益を上げようとした。しかし農民の立入りを禁じた茸山の存在は,天保年間の飢饉のなかで山に入り葛根・蕨などを採取しようとする農民の反感をかい,天保12年には24か村の延べ2万5,000人が人吉城下に押し寄せて町家を打ち崩し,田代善右衛門が自刃する茸山騒動となった(漫録/人吉藩の政治と生活)。なお1年後にかねてから田代氏と対立し,この騒動を調停した御門葉の相良左仲が切腹を命じられており,騒動における百姓の整然とした行動は左仲の扇動によったものではないかといわれる。文久2年の人吉城下の大火(寅助火事)では,城下町の大半が焼けるとともに,城内にも飛び火して藩貯蔵の武具類をも焼失した。幕末の激動期にあたり,急いで新調すべき武具をめぐって,西洋流派(オランダ式)と和流派(山鹿流)が対立。慶応元年9月和流派は,藩主頼基の廃立を図ったとして西洋流派幹部らを上意討ちにし,16人が斬殺されたり,自害している(人吉市史)。これは丑年騒動といわれ,和流派が尊王攘夷,西洋流派が開国佐幕を標榜したことにも特徴があった。この騒動で和流派が勝利を得たが,同年10月には和・洋折半となり,同3年にはは英国式の軍制が採用され,同4年京都での軍隊操練に参加した当藩の洋式軍楽隊は人々を驚かせた(同前)。なお,浄瑠璃「伊賀越道中双六」のなかの「落ち付く先は九州相良」という台詞は,荒木又右衛門のいわゆる決闘鍵屋の辻にかかわった当藩を指している。明治2年版籍奉還により藩主頼基は人吉藩知事となり,政府の指示によって藩政の改革が始められ,家老が執政と称され,大参事以下新役職の任命が行われた。明治初年の当藩の現石高2万5,090石余,同時期の人吉藩人民調書によれば,50石以上の給人182人,徒士722人うち有禄541・無禄181,15石以上の小知134人,士分戸数720・人数3,226,軽輩(足軽)戸数3,310・人数1万4,738,東西同心(大工・鍛冶)戸数109・人数470,球磨水主戸数6・人数23,八代水主(八代仮屋居住)戸数123・人数664など,領内の戸数1万1,411・人数5万4,260,牛7,071・馬9,255(熊風土記/人吉藩の政治と生活)。明治4年廃藩置県により当藩預り支配地であった椎葉山を含む当藩領は人吉県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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